くるまエンタメ理論と娯楽文化と人生シーソーのメモ

 娯楽に重なる文化においては、マジョリティによるマイノリティへの圧倒はそう悪くないんじゃないかと思う。
 令和ロマンのくるまさんのエンタメ理論を独自解釈すると、ある流行が極まって飽きられたとき、悪い面が見えた・悪く捉えられたとき、新しい流行が来て、それもまたいつか新しい流行に取って代わる。リバイバルさえある。
 
 しかし前進する。昭和文化の、令和の価値観に接触しないような、安全で理想化された部分だけが、今は取り沙汰されているのかもしれない。それは美味い部分だけをつまみ食いするような行為で、何回も繰り返されれば、皿に残る料理には美味なものしかない。 

 だから、娯楽のような、他人を傷つけないものに関しては、流行を加速させることでより洗練されるかもしれない。その中で失われるものはたくさんあるだろうが。それに、オタクたちは圧政の中でこそ燃えたり、流行があることであえて違うことを楽しめたはずだ。

 いま、サブカルチャーなんてものはなくなった。音楽と映像のサブスク、いずれは文章のサブスクも解禁されれば、もはやどんなものにも容易にアクセスできてしまう。つまり、流行らない。何かひとつが極まることはない。店頭でグロすぎる本を見つけることも、せっかく買ったからと好きじゃない曲を聴くこともない。

 まるで食べ放題だ。でも、食べ放題のカレーより、カレー専門店のカレーの方が美味しいし、カレーを食べ続けて嫌気がさしてきたときに寿司を食べてもいいだろう。それに、食べ放題なんていくらでも料理があるんだから、誰かは手を抜くかもしれない。客は他の料理を食いに行くだけだ。

 ウエストランドはカウンターとして刺さったが、刺さったからこそベタになってしまって、もうカウンターにはならない。カウンターになるとしても、ベタなカウンターだ。ウエストランドの全盛期は優勝した瞬間だった。

 人間は幸せでも不幸せでもない状態で生まれて、幸せをもちろん望む。幸せでなければ、生きているというより、動いているだけだからだ。機械のように。だからなにかの良い面を見出そうとする。それで長く観察したり関係するうちに、嫌なところも目にする。そうさたらまた別のところに行って同じことをする。

 良い面も悪い面も人間が勝手に見出しているだけなのだから終わらない気がするな。ずっとシーソーをしている。時間が経つにつれて自分を幸せにしてくれるものから良心が抜けていき軽くなりみんな落ちる前に次のシーソーに乗り移ろうとするのかもなあ。

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