共通了解世界/知るということ

 世界がどう存在するか、それについてしか語りえないのにもかかわらず、それについて完全に知ることはできない。もし我々が客観的な事実を見つけられなかった場合、主観的な事実を集めて客観的な事実を作る必要がある。それは、どうあるべきか=どうあれば幸せか/どうあると便利か、という道具的で実益のある事実である。これは、客観的な事実があるときですら見出すべきかもしれない。

 さて、我々は世界がどう存在するか知ることができなくても、我々が世界がどう存在すると思っているのかはアンケートでもインタビューでもすればなんとなく分かるだろう。もちろん全人類を対象にすることは実際的に不可能だが。そして、それぞれの考え方の違いがあったとしても、その最大公約数を知ること・・・それは有益であると思うし、それで十分だと思う。

 我々は知るべきか知るべきでないか分からないのにも関わらずなぜ知ろうとするのか、それは知ってみないと知るべきか知らないべきか分からない・・・つまり不安なのである。そして、分からないというのはある意味で知識の一つなので真に分からないと思えば安心できるのである。我々はよい結果を求めて知ろうとするのではなく、結論を出すこと自体を目的に知ろうとする/考えるのである。

 だから、知の最大公約数=共通了解世界さえあればいい。

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