運命論と努力

 あらゆる出来事は確定していたし、これからもそうだ。石を投げたら落ちることの延長で、日本に生まれれば日本語を話すだろうし、もっと複雑な結果も、意識できるorできない他者・世界の働きによるものである。

 つまりすべては運命ということだ。では、努力は無駄なのだろうか?いや、ここに3つの反論を立てよう。


 1、運命論は無視していい

 分子や原子の動きでさえまだ完全に分かっていないらしいから、どれだけ運命を見通そうとしても無駄だ。なら、ないものとして気楽に生きるべき。自分は自由で幸福なのだと。
 しかし一方で犯罪者を貶したり、成功を誇ったりしてはいけない。法を犯すのも上手く行くのも決まっていたことなのだから。

 2、どこを結果とするかによる

 プロ野球選手を目指したが才能がなくてなれなかった。なるほど、努力が実らなかったわけだ。しかし、彼あるいは彼女の目的が「健康な肉体を作る」「暇を潰す」であったのならば、努力は実っている。
 死後の世界を想定しない場合、人間は死という最後の結果に収束しているから、その途中の出来事は結果であると同時に途上だ。結果を操ることで現状に満足できるかもしれない。

 3、努力自体を目的にすればいい

 これは2と似ている。ある大学に受かることが目標であれば不合格は失敗だが、勉強することが目的であれば、合格か不合格かはどうでもいい。
 努力自体を目的にできる人間には成功しかない。しかし一方で人間の幸福とは希少性であり、可能な努力は目的にならないだろう。

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