信念主義

 真理をどう定義しよう。

 誰に説明しても理解される知識が真理だろうか。では、話す者の弁論術と聞く者の状態次第では誤った知識も真理として広まるな。
 もちろん、一部の人間だけが理解できる知識を真理と呼べるわけがない。

 では真理は人それぞれ、相対主義なのだろうか。いや、この主義は「真理は人それぞれだけど真理が人それぞれだということは真理だ」という矛盾を孕んでいる。

 とりあえず、一部の人間だけが理解できてはいけないし、全人類が理解できても無意味だし、人それぞれでもない知識、それが真理だろう。つまりないということだ。

 ではここに真理はないという真理が生まれた。厳密には、真理はないという真理以外に真理はない、という意味だ。

 この真理は理解されるだろうか?真理はなにかある、と反論されたら定義の話でまた反論できる。真理はなにもない、と反論されたらその通りなにもないことが真理だとまた反論できる。

 形而上学はここまでにして、問題は真理なしに人間は生きられるか、ということ。

 真理を確実な事実と定義するなら(もちろん不確実な夢と定義するわけにはいかないが)、いまこの瞬間に私の足元が地獄への入り口になることも酸素が猛毒になることも考えられる。
 それでもそうは思わない。なんの根拠もないが、そんなことはないと確信している。私たちはいつも真理ではなく信仰に基づいて生活している。そうあってほしい、という。

 私は「私の足元が地獄への入り口にならない教」も「酸素が猛毒にならない教」も信仰している。そういう意味で全人類はなんらかの宗教を信仰しているのだ。

 ただそれらはキリスト教とか仏教とかとは違う。それらはすでに作られた宗教であり、それらの教徒は必ずしも本人の意思で信仰しているのではない(親の影響とか)。
 
 本人が考えて本人の意思で信仰しているもの、それが重複しても(たとえば酸素が猛毒にならないことは全人類が信じていると思われるが)偶然である=超個人的であるもの、それを信念と呼ぶ。

 我々の生活は事実=真理だけで構成されているように見えるし、宗教も教徒にとっては事実なので誰にとってもそうなのだけど、本当は信念だけがある。

 それに、宗教は大衆に広まるため、ある宗教を信じれば生きやすいような格差を作る。しかし信念は本人が信じているだけなので平等である。

 キリスト教や仏教を信じるなというわけではないが、それを信仰という全体主義的な形で信じるのではなく、信念という個人的な形で信じよう、と言いたいのだ。

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