嫉妬について・愛と共同体
嫉妬は、完全な自分という幻想のために生まれる。不完全な自分を愛し、不完全な他人を愛せば、つまりある要素に関わらずその人がその人であるというだけでor人間であるというだけで愛することができれば、つまり無償の愛があれば、嫉妬を原因にする争いは無くなる。
愛は共同体を維持するための差別だが、現代では生存権は容易に確保できるし、これからより多くの権利が確保される。それに伴って許容できる範囲=愛せる範囲が広がるだろう。
解説↓
他人を見て「あれくらい絵が上手ければな」「あれくらい美人ならな」と思うのは、「絵が上手くて美人な自分がいる」という想定をするから。しかし、そんな自分はいない。
ここにいるのは絵が上手くないし美人でもない自分で、他には運動音痴で仕事ができない人や冷酷で独善的な人もいる。
人に対して「愛する、愛さない」の二択があるけれども、愛さないメリットは無くて、愛するメリットだけがある。好きな人が多い世界の方が幸福ということ。とくに、自分は愛さなければならない。自分が他人に愛されるかは分からないし、誰も自分を愛さなかったとしても、自分だけは自分を愛せるから。
また、冷静さは冷酷さにも繋がり、無邪気さは自覚のない悪意にも繋がる。〇〇だから好き、なのではなく、〇〇でなくてもその人がその人であるというだけで好き、と愛さなければならない。
〇〇してくれるから、というように対価を求めてもいけない。
そうして不完全さが許容された世界では嫉妬を理由とする争いは起きない。たとえば、その不完全さを悟った宗教家や人生に絶望した者、つまりある意味で世捨て人は争わない。
自分のパートナーだけを愛する、子供だけを愛するのは、家族という共同体を維持する・存続させるための感情である。もしすべてを愛してしまったら、たとえば狩りをして肉を得て家族を食わせることはできない(愛している動物は殺せない)。
愛は差別的であり広くは同じ人種や同じ趣味の者たちという共同体も対象として守ろうとする。その共同体が膨張すれば限られたリソースを巡って争いが起きる。
現代では食料の生産効率が著しく向上しているため、単なる生存を巡って(生きるのに唯一必要な食料を巡って)争われることはない。ゆえに人間であるというだけであるというだけでは、それが争いの理由にはならないので(食料を奪い合うことがないので)愛することができる。
しかし、たとえば思想の違う相手はいずれ自分の思想を駆逐するかもしれないので「自分と異なる思想を持っている」という点で愛することはできない。一方、「人間である」という点では変わらず愛することができる。
今後、技術や制度や思想の発展によって人類により多くの有形無形の余裕(リソースの増加や使用の効率化)ができれば、それに比例してより多くの属性や違いが争いの対象から外れ、世界は愛に満ち平和になることだろう。
余談
私個人としては嫉妬をしまくる。私はこの思想を広めるために優れた=より完全に近い人間にならなければならない。その中で他人の弁論術や経歴に嫉妬を繰り返して、心を擦り減らすだろう。そして老人や病人になったときに初めて競争=争いから解放される。
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