人間して

 屈折した日々を送っていると、いろいろ不満が溜まるものだ。感覚が過敏になるものだ。ティッシュの箱が1cmずれることさえ、青空が雲ひとつなく澄み切っていることさえ、俺をイラつかせる。

 俺をイラつかせることの中で、とくに忌々しいことは、人間が人間らしく振る舞っていないことだ。たとえば、毎日同じことをすること、これは人間らしくない。いつも同じ場所でいつも同じ時間に同じジャンルの仕事をする…………というのは効率的なのだろう。だが、効率とは機械に使われる言葉だ。人間は生きることが効率的だから生きているのか?たしかに、人間は本能を貪る快楽マシーンかもしれないが、実際のところ、その働きをまっとうできていない。多くの人間は快楽を求めて苦悩するはずだ。人間らしいこととは無駄に溢れていることのはずだ。
 効率という悪魔のパスワードは人間を機械のようにしてしまう。機械は幸せになれないというのに。人間を機械のように振る舞わせるということは、これ以上ない陵辱だと思う。たとえば、年齢や性別について責める、というのは、その人の持つ属性を責めることだから、まだ芯には至っていない。しかし、人間であるということは18歳であることや男性であることの基盤になることで、それを作り替えようとすることは、最低最悪の陵辱と言うしかない。
 人々は無意識にその辱めを受け、与えている。その愚かさ、それを啓蒙する力のない自分の弱さと恥。悔しさ、悲しさ、怒り、虚しさ、俺に辛酸を舐めさせる。いや、そんな辱めに溢れた日常には、辛酸が絶え間なく雨のように降り注いでいると言っていい。その中で暮らすと言うことはさらに俺の心を弱らせる。
 俺は人間が愚かだと言ったが、人間のことが嫌いなわけではない。これほど熱弁しているのだから、むしろ大好きだ。大好きだからこそ、人間が人間を苛めるこの現状にはイラついて仕方がない。一度、本気で変えたいと思って、政治家になるつもりだったし、弁護士先生や元衆議院議員さんの講座にも行った。市議会にも行くつもりだったし、ニュースを欠かさず見ている。そもそも、高2の夏くらいからずっと政治関係の思想や提言のメモはとっている。
 しかし、俺は疲れてしまった。国どころか自分の身ひとつ確実に守り切れないかもしれない。だから指を咥えているのだが、それらは起こってしまった。ウクライナ戦争とパレスチナ紛争だ。
 平和について、という記事を読めば分かると思うが、俺は平和主義者かつ人道主義者だ。人間が大好きで、人間が人間らしくできる平和を望んでいる。戦時下では人間は生きることに精一杯で間接的に統制されるし、軍隊は人々を戦争のマシーンにしてしまう。
 だというのに、今や2023年だっていうのに、先進国の集うヨーロッパで戦争が続いている。そのけっこう右下に行くと、種子島ほどに小さい地域で軍人と民間とも子供がひしめきあっている。
 初めは流行り病にかかったかのように熱くなった俺も、もうすっかり冷めて、人間に対する評価を大きく改めた。今もなお人間は好きだ。しかし、それは、絶対に届かない位置にあるチーズを取ろうとする箱の中のネズミに対する愛だ。対等な愛ではない。
 もちろん、俺は自分がどの人間よりも上にいると思っているわけじゃないし、人間を知り尽くしているわけではないことも、人間に上下をつけられないことも、いい人間がいることもよく知っている。ただ、俺の理性の部分が、人間性を見下した。理性があるのも人間の条件の一つなのだからこれは奇妙な表現だが、今の俺の表現ではそうとしか言えない。
 俺の理性の部分が特定の人間のグループで話す人間性そのものを見下すということは、自分の人間性すらも見下すということだ。俺は自分で自分を見下した。人間性の問題に対して使われたこの理性は数ヶ月に渡る思考で研ぎ澄まされた理性であり、かなり信用できると踏んでいる。もちろん
数ヶ月に渡る思考で研ぎ澄まされた思考は数年に渡る思考で研ぎ澄まされた思考に負けるだろう。まだ寿命が50年くらいある俺にとってこの結論がどのような結果に辿り着くのか、それには興味がある。ライフワークとして、人間性の観察と、人間性の信頼度の査定と、その結論を出す作業は、続けていきたいものだ。

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