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チェンソーマンっていったいなんだったの!?!?!?!?!

なんだったんだろうな。


みんな一緒に考えようぜ。


デンジ

チェンソーマンは英雄譚だ。

デンジという青年が、ヒーローであるチェンソーマンになるまでの物語なので、最終話までデンジはヒーローではない。故に、彼は主人公であって主人公ではない。


ヒーローとはいったい何か?この作品においては、『主人公』『(日本の)特撮ヒーロー』『大人』という概念であり、デンジがこれから手にするものだ。


彼には強い動機もなく、彼の行動も「マキマさんやアキに言われたから」「襲われたから」のパターンだけだ。本来主人公が持つような目的もないから、こいつがどうなるのか、って俺たちが思うこともない。

世間での「主人公らしくない」という評価は恐らく意味が違いこそするものの、的を得ていると言えるだろう。


『特撮ヒーロー』は、子供を助け、子供を導く存在でなければならない。何故なら、「仮面ライダー」「スーパー戦隊」「ウルトラマン」は全て、子供向けの作品だからだ。

「チェンソーマン」は「仮面ライダー」のオマージュであることは、チェンソーの仮面を被ることや、デンジが『電ノコ男』と呼ばれていることなどから読み取ることができる。(厳密にいえば、「悪魔のいけにえ」レザーフェイスや「死霊のはらわた2」アッシュ等もだが、ここでは割愛する。)


そして、彼はまだ無知なる「子供」であり、『特撮ヴィラン』に利用される存在、ということだ。1話のヤクザから始まり、彼の人生は騙され利用される、さながら犬のような生き方だった。

早川アキ

ファイアパンチは復讐譚じゃない。

デンジが主人公でないならこの物語の主人公はいったい誰なんだ?と言われれば、それは当然、確固たる目的を持ち、そのために生きる人物こそが相応しい。


早川アキには主人公になるための明確な動機、目的がある。公安に所属し、家族を殺した銃の悪魔に復讐を遂げるまで悪魔を殺し続ける……というのは、本来物語を動かす軸であり、その憎しみは主人公の持つべき情動だ。

この物語において最も読者の感情を揺さぶり、カタルシスを生むキャラクターといえば、間違いなく彼だろう。


前作「ファイアパンチ」の主人公も復讐に憑かれた男であり、彼も生きるために復讐を選んだ。早川アキはそのセルフオマージュであり、主人公概念を主人公以外に演じさせるための存在だったんだろう。

主人公以外のキャラクターを主人公にするために、前作主人公と同じ目的、動機を持たせることにより実質的な主人公概念を与えたというわけだ。

マキマ

無限のナユタはラブコメなのか?

マキマはチェンソーマンにおけるヴィラン存在だ。

『特撮ヒーロー』であるチェンソーマンに対を成す『特撮ヴィラン』がマキマだ。

『特撮ヴィラン』は、無知な者を自分のためだけに利用する存在であり、悪い大人の象徴そのもの。無知な者とは、当然子供のことだ。故に、彼らは『特撮ヒーロー』の敵なのだ。

アキ編を皮切りに、彼女はマキマ編でようやく『特撮ヴィラン』としての本性をさらけ出す。子供の思考を支配し、思うが儘にする悪い大人だ。

彼女にとっては全ての存在が賢く、愚かで扱いやすい「子供」でしかない。


そして、ナユタ。

藤本タツキの読み切り作品「予言のナユタ」のヒロインで、スターシステムのような形で最終話に登場した。

彼女のことがわからない人は「予言のナユタ」を読んでもらうとして、読んだことのある人なら理解できると思うが、マキマ編は「予言のナユタ」だったのだ。


ナユタは原作と同様、これから愛を知り、他者と関わっていく術を学ぶのだろう。

俺チェンソーマンになりたい

チェンソーマンは読み切り漫画だ

1話の完成度という点において、チェンソーマンは読み切り漫画と言っても過言ではないだろう。1話とマキマ編の構造はほとんど同じ、デンジが悪い大人の支配から脱却するまで、の話だからだ。

同じ構造だからこそ、それを構築するデンジの行動そのものが、チェンソーマンを読み切り漫画から連載漫画に昇華させた意味だ。


初登場である3話からこの作品の概念的主人公だった早川アキは、マキマ編の開始と共に主人公であることをやめ、物語からいなくなってしまう。

このため、マキマ編開始時には主人公がいない。いるのは、「子供」と、「ヴィラン」だけだ。

82話で「無知故に利用される子供」「騙し利用する悪い大人」の構図が描かれることにより、物語全体で描かれてきた「無知と知」というテーマの本質が見えてくる。チェンソーマン・ヴィランは全員何かを知らないことが共通点であり、彼らもまた、全知全能であるマキマに利用されてきた存在だということがわかる。

そして、これは「ヒーロー」の物語である、という構造が明かされた瞬間、マキマは子供を利用する悪い大人であることが示されたとき、満を持してこの作品タイトルそのものを冠する真の主人公、ヒーローであるチェンソーマンが降臨する。

助けを求める声に必ず駆けつけるヒーロー、無知なる者を利用し追い詰めるヴィラン、この構図は特撮ヒーローそのものなんですよね。


チェンソーマンは倒れるが、その意思がパワーとデンジを導き、デンジは自らがチェンソーマンになることを決意する。言うまでもないが、「俺…チェンソーマンになりたい…」はマキマの家で自分の意志で生きることをやめたデンジとの対比になっている。

アキは最後に自分のしたかったことを思い出して主人公であることをやめるけど、デンジはなりたいものをようやく自分で考えて主人公になる。


最終決戦である93.4.5話においても、マキマは彼女が望むチェンソーマンと世界の在り方以外を認めない、例えるなら「毒親」のような思をもってデンジと対峙する。母性を求めたデンジとの対比だ。

覚醒パワーとのやり取りの中でも、彼女は力で屈服させる親のような話し方と、自分の命令に逆らわなかったパワーを「いい子」だと評している。


最終話、デンジとポチタとの会話でマキマ=支配の悪魔も、ただ、「方法を知らなかった」だけで、誰かと共に生きていたかった、ということが語られる。マキマも、これまでの登場人物やチェンソーマン・ヴィランと同じ「無知な子供」だった……というわけだ。

マキマは倒され、デンジと同化(?)したわけだが、攻撃の通じないマキマを倒した方法、それは「愛」だった。これをデンジが手に入れたことこそ、この漫画が1話で完結せず、連載してきた意味だ。『ダ・ヴィンチ』におけるインタビューの中でも、藤本タツキは「ビッグ・リボウスキ」という映画を例に出し、結局最初から何も変わってないけど主人公は確かに成長している、そういう後味を出したかったと語っている。

そう、マキマを倒したものが「愛」であるなら、マキマが知らなかったものとはすなわち「愛」なのだ。彼女は愛され方も愛し方も知らなかった。ただ抱きしめるだけでよかったのに、彼女にはそれがわからなかった。しかし、それを教えてくれる存在とまた巡り合えたのは、きっと幸せなことだろう。

かくしてデンジは「ヒーロー」チェンソーマンになり、先代チェンソーマンであるポチタに導かれる子供から、今度は自分が子供を導く存在となった。まあ、学はないからこれから勉強するんだけどね!


あとがき

読んでくれてありがとう。

個人的な感想は別記事にあります。

一応予防線を張るが、この駄文は私がチェンソーマンを読んで勝手に解釈したものなので、別に解説でもなんでもない。

この解釈は私の偏見や、拡大解釈マシマシなのであまり真に受けず、こういう考えのひともいるんだなあ、くらいにとどめておいてほしい。人生で手に入れた概念を寄せ集めて君だけのチェンソーマンを作り上げよう!

「ダ・ヴィンチ」のインタビューではチェンソーマンそのものに対する答え合わせができるので、読んだことない人は是非読んでみてほしい。

第二部も楽しみですね。改めて、読んでくれてありがとう!


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