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私のセウォル、ケダゴロの『세월』

「たしか修学旅行の船だったよね、先生の言うことを聞かずに甲板に出ていた生徒の方が助かったっていうなんともいじわるな話」というのが、セウォル号の事件覚えてる?と母親に何の気なしに聞いたときに返ってきた答えである。あぁ、なんか救われた、と直感した。そんな覚えられ方もあるのか。もう少し私はケダゴロの『세월』という作品について考えられるかもしれない、と思った。

一方で私は、2014年に起こったこの事件に関して驚くほど何も覚えていなかった。その頃たぶん大学生。おそらく一番社会のことに興味がなく、自分のことにしか興味がなかった頃。

この作品について書かなくてはと思った

私は先日、下島礼紗さん率いるケダゴロの『세월』という作品を見に行った。普段私は言葉と距離を置いているから、見たものをあまり理解したり咀嚼したりせずに身体に入れてふーんと思って通り過ぎていくことが多い。けれども、この作品を見てから気持ちが悪くて、調べたり劇評を読んだりしてはまた気持ち悪くて、そろそろやばいなと思って書くことにした。それくらい、私にとっては後味が悪い作品だった。

私が成長したのかみんながいい感じのヒントを出すようになったのか

もう少しエッセイみたいな書き方を続けてみる。
コンセプチュアルアート的な鑑賞態度、とでも言うのだろうか。裏にあるコンセプトを読み解くような鑑賞態度が、ここ5年くらいで板につい(てしまっ)た。『세월』って公演タイトルを頑なに韓国語表記しているよなだとか、上演中繰り返される音声「가만히 있어(カマニイッソ)」は恐らくこういう意味だろうなとか、あぁ観客の状況と船内の状況をオーバーラップさせる演出かうまいなとか、あの平板は開演直後にみんなが動いたら崩れるだろうなとか、とか。いろんな読み取りが大いにはかどった。しかしこんなことを考えている場合なのか?(=考えさせている場合なのか?)

身体を通してみて考えるとか言うけれど

ちなみに私はケダゴロの作品を、オウム真理教を扱った『sky』、福田和子を扱った『ビコーズカズコーズ』と、なんの気なしに見ている。なんか気付いたら見ていた。同世代の(と勝手に思っている)下島さんは、自分がリアルタイムで経験していない事を下島さんの方法で当事者になりながら、たぶん自身も相当に傷つきながら、創作の芽にしている。
台詞を身体に通していくのでもなく、衣装やセノグラフィーを使ってなりきるでもなく、それはやっぱり、ダンスをやっていると言うだけあって身体を酷使すること、身体的にきっとこうだったかもしれないという非だけれど結果的に似ている状況に追い込むことで成り立つような作品づくりをしている。
でも、本当の正体はどこにあるんだろうか。リサーチでも、稽古でもないとして、やっぱり作品にして、自分のものに一旦しちゃって、たくさんの人に見てもらうことが、彼女の目的なんだろうか。どうか仲良くなりたくない。

前の作品にあった圧倒的な暴力性と笑っちゃう性がなかったので、なんだか事件に目がいっちゃって許せなくなっちゃった

作品について書きたかったわけで、作家についての話になるのは避けたいので話をもとに戻すけれど、今回の『세월』を見た私の感想はこれだと思う。ようやっともやもやに言葉という輪郭を与えることができた。
前の『sky』『ビコーズカズコーズ』にはあった圧倒的な力が、今作にはなかった。それは舞台が広かったからだろうか、上から見ていたからだろうか、テーマの引き寄せ方なのだろうか、そういえば緊張感ある無音と、笑っちゃうシーンがなかったな、とか思った。なんでだか確実には分かんないけれど、その圧倒的な力がなかったせいで、事件そのもの(の真実)が気になってしまって、そんな悲惨な事を扱って(しまった)ことが許せなくなってしまった。

とはいえ、その圧倒的な身体能力だったり(あの野生児みたいな身体どうやったら維持できるのだろう…)、大人数の出演者を一つの作品を信じる方向に持っていく力だったり、リサーチ力、構成・演出力、というものは本当にすごいなと思っているし。ケダゴロ作品によく出ているダンサーたちは本当に見せ方をよくしっているし、愛おしく思ってしまう。


ということで、書けた。やっと書けた。ので、私のぐるぐる考えて眠れぬ夜はもう来ない。のであろうか。いやそんなことはない。
私は母親のセウォル像に、意図せず救われてしまったのだが、それは下島さんの描く『세월』に頭を支配されてしまっていたのを結果的に剥がしてくれたからであって、少し距離をとって、ノンフィクションを傷つき傷つかせながらそれでもこの手に取ってみる/取らざるを得ないということについての一つの向き合い方を知ることができた。

秋山きらら
2022/06/04/26:58


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