もうどうなったってしかたないよねという子供への諦めと自分への諦め

最近、すすきののニュースを見て、他人事ではないなと思うようになった。全容が明らかになるにつれ、親の心情がすこしだけわかるような気がしてくるのだ。暴力的な要素がある発達障がいの子供の親はみんなそうなんじゃないかな。発達障がいのもとにある人については、人格がどうこう言う次元の話ではないと思う。ASDもある我が子は、人格そのものが一貫してなくてバラバラ。すごくものわかりがいいときもあれば、明るくてパリピみたいなときもある。優しいときもあれば、極めて冷酷なこともある。鬼のような時もあるし、死んでやるとうつになってる時もある。
親でさえ、そのちぐはぐな人格を把握するのが難しい。

子どもが子どもらしい年齢の時は、必死で守ろうとしていたし、まともに生んであげられなかった親の責任も大きいと思った。でも、からだが大きくなり、力が強くなると、暴れられたら、恐怖心が増大してきた。子どもが怖いし、もう逃げ出したくなるのだ。
死んでやると言って出掛けていっても、追いかけて止められる力もないし、止める術がない。そして何回もこういうことが続くと、ああ、これは何があっても仕方のないことだなと思うようになる。

死にたいと言う人を
止められないじゃないか
この世が地獄で生きているのが苦しい人を
地獄に引き留める理由はない

私自身がそう思うからだ

自らそれを選ぶときは
逃れられない苦しみがあるからで
生きてさらに苦しめというのは
解決できない人が
言えない事だと思う

きょうは子どもが暴れて
カッターナイフをふりまわして
薬を多めにくれと殴りかかってきたので
はじめは抵抗してくすりの箱をとりあげて
羽交い締めにしてなんとか
床に投げ捨てたけれど
突き飛ばしたり噛もうとしてきたり
そんなのもいやになり
止めるのをやめて
リスペリドンを3つ渡した
さらにインチュニブも3つ
飲んでいたようだったけれど

薬でなにかあったとして
わたしのせいなんだけれど
それでも仕方ないじゃないかと
子どもがそとへ出ていってから泣いた

どうせ
どうなったって、あの子が死んだら
自殺だって事故だって
私のせいになるのだから
どうでもいいんだ

私には死ぬ勇気もないけど
きょうは本当に
なんもかも放り投げて
死ねたら楽だなと思った

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