努力という概念が存在しない、できないのは怠慢なわけではない

世の中には『なまけもの!』『なんでできないんだ』なんて叱責され続けてる人も多いと思うけれど、その中には発達特性のせいでそれが出来ない人が結構いると思う。わが子も小さいときには怠慢だと思っていたけれど、よく見ているとそんなわけではない。彼なりにがんばっているのだけれど、達成すべきところに追い付かないし、そのプロセスが計れないから『努力が足りない』『努力できない』と、定型発達の世界には否定されてしまう。
その原因は『自己理解』の不足
これに尽きる

自分がどのような存在なのか、どこまでの能力があるのか、いまどのように人から見られているのか、が十分理解できないのだ。第三者的に俯瞰できる視点を持てない特性があるからだ。

なので、ちょっと恥ずかしいようなことも平気でやる。コスプレして屋外を徘徊するとか、ダンボールをごてごてと貼り付けた改チャリで外をブラついたりする。そういうことを平気でやる(その割りには親が外で大声で笑うと恥ずかしいからやめてとか言うけど笑)
自分の工作の力量がわからないので、高度なコスプレ衣裳を作ろうとして、出来なくてかんしゃく起こして暴れるし、中学生になるけれど、努力も経験もないのに本気でメジャーリーグに行けるとか思ったり、将来大金持ちになれると根拠なく思っていたりする。

冗談ではなく本気なのは、そこに至るプロセスが想像できないからだ。他者がそこに至るまでの努力を想像する能力のみならず、共感する能力も、自己理解も未熟なのだ。

身の程を知る、という言葉があるが、それが出来ないことが、こうも生きていく上で障害になるとはねえ。
でも怠慢ではないんだよ。本人生きてるだけで大変で、それだけで頑張ってるからね。もう、毎日毎日乗り越えるだけですごいんだよ。
WISCの上下の差が100あるって、どんだけいきづらいかとは思うよ。でも見た目とかちょっと話しただけでは単なる大人びた子どもなんで、理解してもらえないんだよね。

とりあえず、親
そこのお前、父親くらい理解してやれよ

と、本日言いたいのはこれです笑


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