【お話13 ほんとうのわたし】
ただいま、という声がかすれた。
今日も仕事でしゃべり倒したせいで、声がうまくでない。
返事のない、真っ暗な部屋なのだから無理をしなくてもいい。分かっていても、陽菜は長い実家暮しのクセがまだ抜けていなかった。
スーツのジャケットを脱いで、電気をつける。
明るくなった部屋に散乱する物の多さは、もう気にならない。
クローゼットを開きながら、パンツを脱いでジャケットとセットでハンガーにかける。
ジャケットの背中に、営業先の椅子に浅く腰掛けたシワがくっきりと残っている。
クローゼットの中にあるのは、そんなシワがついたジャケットとシャツばっかりだ。
今日もそんな空間に、背を向ける。
陽菜はローテーブルの上に目をやった。
黒いノートパソコンと、その他のものがたくさん。
インスタントスープが黄色の塊になってこびりついたマグカップを持ち上げる。
シンクに持っていこうとして、キッチンの上も片付いていないことを思い出す。
どうしようもなく、マグカップをぷらりと持ったまま、ノートパソコンを片手で開いた。
電源を入れる前、一瞬だけ自分の顔がモニターに映る。
一瞬だから、よく見えない。よく見えなくていい。
起動まで、ものすごく時間がかかる。
もう何年も前に買ったものだから当たり前だ。
陽菜はストッキングを脱いで、パソコンが完全に目を覚ますのを待つ。
ぼんやりと明るくなっていく画面を目の端にいれて、下着姿になっていく。
メイク落としシートを取り出して、薄い化粧をそぎ落としていく。
肌に悪いからメイク落としにはシート以外を使う、と思っていたのは大学までだ。
私の肌なんて誰も見てないから、どうなったってかまわない。
ドラッグストアで買える化粧水と乳液を、手のひらで塗りたくる。
ようやくパソコンが起動する。
陽菜は口角を上げて笑った。
「おかえりなさい、私」
呟く言葉はかすれていない。
お前はもっとできると、教えてください。