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佐藤さん 01

こんなに楽しい夜は初めてだ。
ファミレスのトイレの鏡を前に、私は深く息を吐く。短い髪の毛を掻き上げる。汗で湿った髪の毛なのに、あまり不快だと思わない。
「はぁ」
短い呼吸がまた、零れる。
メイク直しと言って席を立ったのだから、メイクを直さなくては。私はカバンから小さなポーチを取りだす。簡単に汗を取って、ファンデを薄く塗り、眉毛を描き足す。メイクの途中。鏡の中に平凡な20代の女がそこにいる。名前と一緒。おもしろみもない。特別な出来事も私には起きない。でも、今日は違う。特別な日に使うイブサンローランのリップもしっくりくる。カラーの名前も憶えてる。今日にふさわしい名前だ。
汗ふきシートでさっと脇と首を拭いた。すっと冷える体温に比例して、頭の奥は熱い。ファミレスのよく分からない芳香剤の匂いが染みつく前に、私はトイレのドアを開けた。


四人掛けのボックス席に戻ると、【シオ】さんは両手でスマホを触っていた。指先は黒色のベースに白いレースのようなネイルが施されている。綺麗な黒が、くるくると動く。小さくて、かわいい。
「お待たせしました」
「あ、おかえり【しゅがーちゃん】。ウーロン茶取ってきたよ」
「ありがとうございます…」
【シオ】さんと向かい合うようにして座る。私の前に置かれた、透明なプラスチックのコップには、氷の入っていないウーロン茶と、メニューが置いてある。【シオ】さんはスマホをテーブルに伏せて置く。
「ねぇねぇ、【しゅがーちゃん】ポテト頼んでいい?」
「わー私も食べたい!あ、えっと…」
「いや、タメ口でいいでしょ。あたしら、同い年でしょ?」
にやりと笑う、その顔はまるでかわいいを詰めたようだ。同い年と言ってはいるが、きっと彼女のほうが若く見える。
つるりと光る真っ黒な髪の毛は二つに結ばれている。私は思わず、自分の首裏を触る。ショートカットにしてからもう長い。ツインテールなんて、私はしたことがあっただろか。
「あの、【しゅがーちゃん】は恥ずかしいので…やめてください…」
私は俯きならウーロン茶に手を伸ばす。一口飲むと、味は少し薄かった。
「なんで?【しゅがーちゃん】ってかわいいじゃん」
【シオ】さんは、自分用のコップを手に取った。サイダーだろうか。透明な液体に、泡がふつふつと浮かんでは消えていく。
「…私、名前が佐藤で、リルの同行者探す用のアカウントだから、かわいい名前がいいかなって思って…慌ててたし」
「確かに。慌てた感はあるわ。フォロワー少ないし」
「一人でライブなんてとてもじゃないけど行けないもん。必死だったぁ」
笑いながら、私は【しゅがーちゃん】のアカウントを作った時のことを思い出す。

リルのライブに一緒に行くはずだった大学時代の友達が、急な仕事で行けなくなった。
友達に教えてもらいながら、新しくツイッターのアカウントを作った時は、ライブに行かない選択肢すら頭の中に浮かんでいた。
この時ようやく、私は彼女のことを思い出した。本当ならばこうやってファミレスに来ている予定だった彼女のことを。お土産にランチェキでも買ってくればよかったと思ったけれど、もう遅い。
今は目の前の楽しさを満喫しよう。
「本当に【シオ】さんがリプくれて助かった…」
「あたしのほうこそ、【しゅがーちゃん】のおかげでリルに会えた」
「だから、【しゅがーちゃん】はやめてってば」
私たちは、二人でけらけらと笑った。ファミレスのメニューを開いてテーブルに置いたまま、ずっと笑っていた。
頼んだ湿気たフライドポテトの味で笑い、リルのライブについて心行くまで語りあった。
ランチェキを開くと、私は推しのサクが当たって、また大騒ぎだった。ライブ会場から引きずったままの熱が、喉の奥からどんどん溢れてきた。
これだけ騒いでも、ファミレスは寛容で無関心。

幸せ以外の何物でもない。

私が【シオ】さんの本アカのことを知ったのは、帰り際。
地下鉄の改札前だった。


のろりとホームに入ってきた電車に乗り込む。そこそこ空いていたおかげで、ドアにもたれかかることができた。
私はツイッターを開き、つい数分前に教えてもらった【シオ】さんの本アカを見る。
彼女はフォロワー3万人弱の、インフルエンサー。本人は「ちょっとイラストが描けて、それが一回バズったから」と言っていたけれど、そんな程度のものじゃないはずだ。
メディア欄を開くと、つい先ほど、ファミレスのテーブルを挟んで向かい側に座っていた人がいる。淡いフィルター越しで、キラキラと目が輝いている。実物もかわいいけれど、この写真はもっと可愛い。
自撮りに混ざって時々上げられているイラストは、ゆるく細い線で描かれた女の子だ。どれもかわいい。少量だけ通販されたらしいステッカーのツイートに、ハートを送る。私が高校生だったら、このステッカーを買って、スマホケースに貼りたいと思った。
ポンポンと彼女の投稿にハートを送っていると、最新のツイートが更新される。
彼女の顔のアップの真横には、今日のライブチケットがあった。

《今日はリルのライブ行ってた やっぱリルサイコ―
 帰りにファミレスで友達としゃべったのもめちゃ楽しかった》

私はその投稿にも、ハートを飛ばす。リプは、しなかった。

なぜか口の中からため息のようなものが漏れて、顔を上げる。電車の窓ガラスに、自分の顔が映っていた。
きらりとピアスが揺れる。好きなハンドメイド作家さんの新作。マットなピンク色の飾りと、細いシルバーのワイヤーで作られた球体が連なっていてる。球体の大きさは右の方が大きくて、私の頭も右に傾いている。
ピンクの飾りに触れる。サクのメンカラであるピンクは、基本的に私の肌色によく似合う。それなのに、夜の車窓に映っているのは、なんだかつまらないもののように見える。【シオ】さんの耳にたくさんついたシルバーのキラキラが、目の奥で明滅した気がした。

【Shio】のアカウントを【しゅがーちゃん】でフォローする。
ついさっきの投稿に、もう何個かリプがついていた。
私はそっと、スマホの画面を暗くした。

お前はもっとできると、教えてください。