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【お話19 皺と薔薇色】

朝、カーテンを開けた窓の向こうに広がる空が、とても高く感じた。
いつも重たくて、しんどい身体が、今日だけは大丈夫のような気がする。
「よく、寝た」
自然と零れた言葉が、自分の心を軽くしてくれた。いい朝だ。

時計代わりにテレビをつける。朝のニュースは、不景気で暗い話ばかりだ。
数日前にやっていた、アイドルの結婚の話が最近で一番明るいニュースのような気がする。
アイドルのファンでもなかった自分にとっては、だけれども。

朝ごはん。食パン一切れ。ヨーグルト。コーヒー。
歯磨きをすると、口の中が全部ミントになって終わる。
顔を洗う。皺が深くなっていくばかりの肌に、化粧水と乳液を置く。化粧水を変えようかしら、と思う。

テレビで流される天気予報を聞きながら、パジャマを脱いだ。朝と昼の温度差が今日もすごそうだ。
白いワイシャツと黒いパンツに着替え終わると、少し身体が重たくなる。きちんとした服装というものは、だいたい重たい。

もう一度鏡に向き合い、下地からのっそりとした手つきで色を重ねていく。
粉がシワに溜まらないようにする過程が増やすようになってから、もう何年経つだろう。
久しぶりにあった娘が、つるりとした肌をラメで輝かせながら、「その作業はなにか?」と聞いてきた時は苦笑してしまった。
あんたもいずれするようになる。そんな、呪いとも、予言とも言えない、微妙な気持ちは口にしなかった。
娘が同じ作業をするようになった時、自分も隣で同じ作業ができたらいいな、という気持ちのほうが大きかった。

余計なことを考えながらも、鏡の中の顔は順調に描かれていく。
眉毛を描き終わった瞬間、急に物足りなくなった。
一日中マスクをつける生活が続くようになってから、メイクとはすなわち目の周りだけのことだった。
普段ならば、それでいいのだが、今日は物足りない。

マスクですぐに隠れ、よれてしまうと分かっていても、口紅がしたくなる。

化粧道具の奥底に追いやられた、ルージュと紅筆を取り出した。
マスクをつけ始めるハメになる少し前に買ったそれは、ほとんど使われていない。新品同然だ。
唇に赤い色を当てる。すっと引くと、気持ちよく色がつく。
均等に色を置き、紅筆で整える。

急に、顔がはっきりとした。
髪の毛にくしを通す間、ずっと鏡を凝視していた。
ほんのり、心の奥がポカポカする。

家を出る直前、白い不織布で顔半分を覆う。
太宰治の『女生徒』のワンシーンを思いだす。
下着にこっそりと縫い付けた、薔薇の刺繍の色は、きっと今日のこの唇とよく似た色に違いない。

部屋に鍵をかけて、歩き出す。
パンプスの削られたヒールが、コツコツと音を立てながら、アパートの廊下を踏みしめていった。

お前はもっとできると、教えてください。