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Platea −マネがいる場所

以下の文章は、2020年の個展の際に発行した図録『in Platea』に収録した僕の文章です。図録がおかげさまで売り切れて久しいので、文章をここに再掲します。

Platea −マネがいる場所

「……扉はわれわれから歩行のさいのあのゆるぎない安定を奪い、日常の慣れによってわれわれの感覚が鈍磨する以前には、一瞬天と地とのあいだに漂うかのような不思議な感じを与えたはずである。※1 」

マネの犯行


 マネは、紛れもなく「近代絵画の父」の一人であるが、その魅力は、美術史的な重要性から生じるもののみにはとどまらない。ジョルジュ・バタイユは、言わずと知れた『マネ』において新たな時代の幕開けをマネに見ているし、他にもミシェル・フーコーやクレメント・グリーンバーグなど、錚々たる面々が、バタイユとはまた違った観点から、しかし同程度の重要性をマネに認めている。

 スキャンダルを巻き起こし、人々の怒りを買った美術作品は少なくないが、私がマネの芸術の美点だと考えるのは、スキャンダラスな作品ながら、かくも多様な解釈に開かれている点である。あるいは、彼の絵は一つの起源として、凝縮された解釈可能性を内包している、とも表現できる。バタイユは先史時代の芸術とマネの絵画を、芸術の歴史の二極と捉えていた。芸術の起源の一つである洞窟壁画と、「歴史以降の芸術を開く ※2」マネの絵画は、二極として対置されるものである一方、起源としての可能性を共有するものでもある。

因襲を打ち破ることは、新たな可能性への扉のように思われるが、実際のところ作品が、その因襲を内包する伝統に対するアンチテーゼ以上のものになることは珍しい。マネの芸術は、反逆児として過去の大家に立ち向かう道筋と、その革新性で後進たちに示した未来への道筋の、ちょうど岐路に位置する。

犯行現場

 バタイユは、マネの代表作である《オランピア》について「犯罪や死の光景と区別しがたい」と述べている。犯罪の起源は簒奪に関わっており、その結果においては存在の消失がもたらされる。「犯罪や死の光景」とは、言い換えれば、取り返しのつかないことや不在の感覚に満ちた光景である。《オランピア》では、聖書や歴史に基づく約束事によって命を吹き込まれるような存在、そうしたものがマネによって破壊され、色と筆致の新しい調和が代わりにその座へと転がり込んでいる。

 芸術作品を犯行現場になぞらえた評価で思い出すのが、アジェの写真に対するベンヤミンの言葉だ。「かれは風景をちょうど犯行現場のように撮した ※3」とベンヤミンが言うとき、念頭にあるのは写真内の路地のひと気のなさである。ひと気のない路地は、犯行後に撮られる証拠写真を想起させる。犯人も被害者も既にそこにはいないが、痕跡を記録するためにそれは撮影される。《オランピア》に内在する「犯罪や死の光景」と、犯罪の証拠写真のようなアジェの写真との相違点は、後者は犯行後の光景であるのに対し、前者は現行犯であることだ。

 モチーフとしての現実的な娼婦や、伝統的な陰影法を欠いた描法による肉付けなどは、当時のアカデミズムに代表される芸術に存在していた様々な主題や約束事が、マネによって殺害されていることを直接示している。《オランピア》においては、今、まさに暴力が行使されている。これは現実の街路を写したアジェの場合とは異なり、マネの作品が、絵画というある種のフィクションのうちに描かれたものであるがために可能となった性質である。ちょうど、実写映画での死の場面において、役者はあくまで死の演技をするほかないのに対し、小説では登場人物の死を完全に描きうることと同様に、マネは、絵画的フィクションの次元でその色価や筆触を操作し、同じくフィクションのもとに成り立っていた聖なる約束事を破壊する。

 以上のことから、アジェの写真以上に、犯行の現場性ともいうべき性質が、マネの作品には付帯していることがわかる。約束事の殺害は、絵画の中で、今、まさに成し遂げられる。マネによって犯行は、いわば永遠の現在完了形のうちに閉じ込められている。

二つの道筋

 主題や約束事の殺害、破壊は、のちの抽象絵画へと至る過程で徹底的に遂行されるが、それはもはや犯罪の証拠ではなく、「父殺し」の後の秩序のもとでなされる合法的なものである。

 犯行が遂行されるためには、その暴力を被る対象がいることと、何より、法が侵犯されることが必須である。19世紀後半に芸術上の法として振舞っていた様々な約束事は、マネによって破壊され、彼は芸術における大犯罪者となったが、その犯行はのちの時代の新たな約束事になっていく。しかし、そうした時代、真に犯罪的な芸術を生むことことは極めて難しい。

 マネに続く芸術家たちは、マネによる侵略から生き残った主題や因襲を相手取り、破壊していく。重要度の高い主題、因襲がまず殺害され、それらが後進によって次第に縮小しながら繰り返された結果、最終的に犯行対象の消滅がもたらされる。端的にいえば、そこから二つの道筋に分かれる。一つは、芸術の外部に新たな犠牲を探す方向。つまり、ポリティカル・アートなど、社会一般における因襲や不正などを相手取る戦略である。これは同時代性や現場性を重要視する戦略でもある。そしてもう一つが、マネがもたらした新たなる領域の内に住まうという道。例えばバタイユはマネの作品について「オリンポスの否定、詩作品(ポエム)と神話的な大建造物(モニュマン)の、大建造物と壮大(モニュマンタル)な約束事(それらは〈神の国〉のいにしえの現実と関わっている)の否定※4 」と表現しているが、これらの否定ののちに、マネは後進に向けてまた別の中規模な建造物を用意したと言えるだろう。そうした建造物は複雑で適度な大きさの約束事を保証してくれる。先に、「色と筆致の新しい調和」と書いたが、このような絵画の自律性を追求する方向はここに含まれる。

 ここで「通り」と「中庭」というキーワードを、上で述べた二つの方向性に重ねてみたい。既存の芸術からはみ出した外部を問題とする態度には「通り」という言葉を、絵画の自律性を追求する態度には「中庭」という言葉をそれぞれに当てはめ、思考していきたい。

通りとしての芸術

 芸術が「神話的な大建造物(モニュマン)」の外に向かうとき、それは通りとなる。マネは《老音楽師》を描くにあたって、貧困層の人々が住むプチ・ポローニュでモデルを見つけたといわれる。街を歩き回りモデルを探す画家の意識には、アカデミー内のモデルが誇示する堂々とした姿態に対する反抗心があったのだろう。《老音楽師》に描かれた人々には、感情が凝結したような身振りの雄弁さは見られず、気ままに各々の望洋たる今を生きている。
アカデミズムの画家が選ばなかったモチーフ、従来の描法や約束事の否定と革新などが、マネの芸術にとっての「通り」的な性質である。これらの要素は従来的な芸術が保護する領域から外れてしまっている。そうした要素のいずれかを持つ芸術家はもちろんマネ以前にも存在したが、マネの芸術が特に「通り」としてのそれだと形容できる所以は、個々の要素が緊密に結びつき、どれか一つでも欠けたら成り立たないような構造にある。「大建造物」の中から「通り」を眺めて絵にするのではなく、完全に「通り」へと足を踏み出してしまうこと。それを実現するには、モチーフや描法の革新、約束事の否定などが同時に成し遂げられなければならない。「大建造物」の引力はそれほどまでに強く、片足でもそこに残っていれば、結局内部へと引き戻されてしまう。「通り」へと旅立ち、そこで新たな場所を確保することにマネは成功した。しかし、マネが確保した新たな場所は、「大建造物」の庇護下にあって登場人物が自身の役割に没頭できたマネ以前の絵画空間とは異なり、不安を感じさせる場所であるように思える。

 マネのいくつかの作品に登場するモデルたちは、気散じの状態にあるように見える。完全に絵画世界へと没入している人物群が描かれていた18世紀のフランス絵画とは異なり※5 、マネの絵に登場する人物は、観者である私たちに気がついているようだ。オランピアは、こちらをまっすぐ見つめている。そのドラマ性を失った感情の読めない眼差しはまた、マネ自身がモデルを見つめる目線でもある。マネは、モデルに神話の女神を見出すことはない。目の前の裸婦は、単に裸婦なのである。あるいは神話の女神にこそ、娼婦を見出しているのかもしれない。とにかく、裸婦を描く口実へと堕してしまった神話の女神は、マネによって衣服のみならず、その表象がまとっていた様々な意味をも剥がれてしまった。そのようにして現れた高級娼婦は、他の誰でもなく彼女自身であり、その目線はただそれのみをこちらに伝えている。

 目線が鑑賞者に向いていることで、絵画が描かれている舞台を越え、現実へと、「通り」へと歩み出てくる。絵画を愛好する紳士たちは、神話と約束事に保護された安全なはずのサロンで、通りで買ったいつかの娼婦に見つめられ、うろたえる。《オランピア》における娼婦の目線、《老音楽師》における老人の目線は、それ自体ではなんの告発もしていないが、絵画空間の没入を乱すその目線が、保守的な人々に彼ら自身の頑迷さが責め立てられているような感覚を覚えさせるのだろう。

 先に述べたように、「通り」としての芸術には、同時代性、現場性が重要である。マネの絵画の同時代性はモチーフによるところが大きい。しかし、そうしたモチーフを従来的な手法で描いても、それは真に「通り」的な芸術にはなり得ない。同時代的モチーフを描くのにふさわしい基準の誕生が既存のセオリーを破壊し、その破壊の場が絵画であることが繰り返し確認されることで絵画に現場性が宿る。ベンヤミンがアジェの写真に犯行現場と同様のものを見てとったことは、それが街路の写真であるがゆえに、本論において意味を持つ。犯行はまさに「通り」において行われるのだ。

 マネの革新が、後進の芸術家たちに与えた影響は計り知れないが、ひとまず、「大建造物」から弾き出された同時代の問題を対象とするような、典型的な現代アート的態度の起源の一つがここにあると言えるだろう。

 マネの絵画は単に従来的な芸術を破壊してその可能性を蕩尽してしまうものではない。モチーフや描法の革新は後の芸術家が「通り」へと出ていくことに多大な貢献をしたが、「大建造物」とはまた別の内部、つまり私が「中庭」と呼ぶ場所へと立ち入るためにも機能している。以下では「中庭」の性質がどのようなものか見ていく。

中庭としての芸術

「通り」とは反対に、芸術がその固有の価値体系の中に、つまり「建造物」の内部に留まるとき、それは「中庭」となる。「中庭」としての芸術はマネによって始まったと言える。なぜなら、いかにマネ以前の芸術が「大建造物と壮大(モニュマンタル)な約束事」の内部にあろうと、それは神や皇帝、宗教や神話などの外部に存在理由を持つからである。あるいは、そうした権威を第三者の認証機関のような位置に置くことで、芸術は「大建造物」に住まうことを許されていたとも言える。それに対し、「中庭」に住まうことの目的は他の誰でもなくただ自分自身に向けられている。

 マネは革新を成し遂げた。革新自体は既存の秩序を否定し「通り」としての芸術を成立させるためのものだが、その内実を詳しく見ていくと革新は「中庭」の成立にも深く関わっているとも言える。マネの革新が過剰ではなく、抑制によって達成されているからだ。例えば、バタイユによって「死の光景」と喩えられた《オランピア》の硬直した姿態には、抑制の効果がどのように現れているか見ることができる。セザンヌはモデルに静物のようであることを強いたが、マネもまた《オランピア》において、身振りの持つ効果を慎重に封じ、モデルを静物のように扱っている。画面内のもの言わぬ人物は、身振りから感情を読み解くことを困難にし、鑑賞者は、本来なら絵画のうちに埋め込まれているコードが、ここには存在しないのかもしれないという可能性に不安を覚える。

 マネの抑制はまた、筆致にも現れている。一見して明らかなように、彼は滑らかな仕上げを施す手前で筆を置いている。その筆致は、芸術的情熱の迸りであるようなドラクロワやゴヤの筆致とは異なり、節度を持ったつつましやかなものである。バタイユは、ゴヤとマネが絵画の沈黙という境地に各々の方法で至ったことを、「近代絵画は、厳粛さや敬意で満ちた世界でゴヤの過剰さが達したものに、不在によって※6 」達した、と表現した。ゴヤは過剰によって、マネは「不在」=抑制によって、絵画の饒舌な意味内容を沈黙せしめる。

 従来の絵画ならば主張してくるはずの要素が消失したとき、今までは見逃されてきた絵画の表面の様々な要素が顕在化してくる。マネは、彼以前の絵画では隠れてしまったものの存在を沈黙のうちに看取した。そのとき、絵画はそれ自体のうちにある秩序を露わにし、フォーマリズムへの扉が開かれる。その扉は、「通り」に開かれるものではなく、「中庭」のうちに入るためのものである。

 つまり「中庭」とは、クレメント・グリーンバーグの言うモダニズム※7と、かなりの程度重なっている。グリーンバーグは「絵画のミディアムが他と比べて容易に孤立できたこと※8」が、音楽や小説ではなく、絵画−−特にマネの絵画−−が最初のモダニズム芸術となった要因だと言う。宗教や神話と関連して形成されていた絵画世界の巨大さと比べれば、絵画それ自体のミディアムに沈潜していくようなあり方で形成される領域は小規模である。縮小された規模は「中庭」の語が持つスケール感にふさわしいし、「孤立」と言う言葉もまた然りだ。「中庭」は通りに面しておらず、よりプライベートな空間として外界から孤立している。建築史家であるノバート・ショウナワーは中庭について以下のように説明する。

「中庭住居の本質的な特色は、住人に快適な環境を与える点にある。囲まれた中庭は植物や日除けや泉等によって容易に気温や湿度を調節できる。しかも、四角い庭に対して四つの異なる方向から部屋を面させることができるので、住居内の各部屋の配置が外的な制限を受けない。これに比べると、西洋の住居では、配置が戸外の景色などにかなり影響されやすい。※9」

 調節が容易であることや、外的な要因による配置の制限の緩和といった要素は、グリーンバーグ的モダニズム芸術の特徴としても妥当だろう。マネの絵画に始まるモダニズム芸術は、ミディアムに着目することで宗教や神話といった高次の概念への従属から解き放たれ、芸術それ自体の内的な秩序を構築していく。絵画において高次の概念が「外的な制限」として働く限り、色彩やモチーフの「配置」はある一定の範囲に限定されるが、絵画がその内的な秩序に従うならば「配置」は最大限の自由の下に構成される。色彩はもはや陰影の黒さに純粋さを曇らされることなく、色彩間に存在する抽象的な必然性に従って選択される。このような態度によってもたらされた究極の成果は抽象絵画であるが、それは抽象表現主義に典型的なように、横への広がりというよりは高さの感覚、崇高の感覚をもたらすものだ。

「中庭」は「通り」からは隔絶されているが、空に向かって開かれている。

Platea, 失われた楽園

 Plateaという「通り」を意味するラテン語には、2世紀頃まで「中庭」という意味があった。もはや言うまでもないが、そうしたPlateaという言葉のあり方に、マネの芸術と共通の構造を見るというのが本論の目的である。今まで見てきたように、マネの芸術には「通り」としての側面と「中庭」としての側面が存在していた。重要なのは、それらがマネの芸術の中に同時に存在していることだ。つまり、マネの芸術をPlatea的だと表現することは、「通り」「中庭」といった性質を個々に当てはめるよりもふさわしいと言える。
 時間的な先行と、否定の対象となった権威の大きさが、マネとマネ以降の芸術家を区切っている※10。Plateaという単語に2つの意味が併存していた時期が遠い過去であるように、「通り」としての芸術と「中庭」としての芸術が、ちょうど同程度の重要性で共存しうるのはマネの絵画をおいて他にはない。
 Platea的な芸術であるマネと、Plateaという言葉自体の多義性は、私の目から見ればどちらも遥かな過去の中にある。このような時間性はヴァルター・ベンヤミンの思想における「楽園」と重なる※11。ベンヤミンが考えた「楽園」とは、一つの対象に一つの正しい言語が対応するような場所のことであるが、それは知恵の実を食べたことによる相対的な思考の獲得や、バベルの塔の建設が引き起こした言語の混乱によって、永遠に失われている。そうした断絶後の時間にあって、失われてしまったものの色彩はくすんでいくが、その色彩にこそ、ベンヤミンは新たな思考の源泉を探し出している。そしてそれはマネについても同じことが言える。マネは、同時代のアカデミズムには反旗を翻したが、ティツィアーノやラファエロなどの過去の巨匠には反感を抱いていないように見える。時間的な隔たりが過去の巨匠たちの作品が持つ意味内容をくすませ、その色彩が16世紀には存在しなかった新たな価値を創出し、それをマネに探究せしめたのである。マネにとってのジャポニズムについても、彼との間に横たわるのが時間的な隔たりではなく地理的な隔たりという違いはあるが、同じことが言えるだろう。

 Plateaという言葉においても、それが古ラテン語の日常的な用法から地理的にも時間的にも離れて、隔たりの下に置かれることで、私にとってPlateaとマネの芸術と重なるような新たな「地平 ※12」が開かれる。またPlateaという言葉が内包していた一見相反する二つの意味に、私は言語の混乱ではなく、むしろ失われた同一性を見たい。それは、外である「通り」と内である「中庭」が同じものになってしまうような完璧な場所=「楽園」の同一性である。つまり私にとってPlateaという言葉は、マネのみならず「楽園」のイメージも重なるようなものである。古代ギリシャやローマの中庭がしばしば楽園を再現しようとしていることも、その類似したイメージを強めることに貢献している。

 あるテレビゲームをやっているときにふと、中庭という言葉を展示に組み込もう、と思いついた。そうこうしているうちにPlateaという単語に出会い、辞書で調べ、「通り」「中庭」という意味があったことを知った。その頃から、なぜかPlateaという単語に青緑色を、より正確に言えば群緑色を感じるようになった。この文章を書いているうちにその理由がだんだんと見えてきた。先述したように中庭が楽園のミメーシスであるならば、楽園は群緑に染まっているのだろう。Plateaという言葉に、私はマネの絵画と群緑色を見る。それは遥か遠方の山々が帯びる、あの色彩でもある。

補遺:彼はためらいがちに娼婦に声をかける

 マネの作品が、約束事や従来の絵画が表現していた大仰な感情を否定し、「不在」の感覚を与え沈黙していたとしても、《オランピア》や《フォリー・ベルジェールのバー》といった作品からは、疑いようもなくエロスが滲んでいる。「自分自身が属している階級の敷居をはじめて越えるときの感情が、公道で娼婦に声をかけるときの、ほとんど他に例を見ない魅惑として関係していたのは疑いない※13」とベンヤミンは言う。マネは、自身の「通り」的な芸術を達成するために「公道で娼婦に声をかける」。それと同時に、絵画の社会的階級の敷居が乗り越えられる。

 エロスの感覚は「通り」だけでなく「中庭」にも満ちている。ポンペイの邸宅における中庭では、酒と陶酔の神であり、また豊穣とファルスの神でもあるディオニソスが非常に重要な存在だった※14。種々の酒が並ぶ《フォリー・ベルジェールのバー》のバーメイドが娼婦でもあったことも併せ考えると、酩酊が生じる「中庭」もまた、エロティックな空間である。

 マネが、絵画の意味内容を否定し、近代絵画へと決定的な一歩を踏み出したことはグリーンバーグの指摘する通りだが、それでも彼はモチーフの持つ意味を完全には否定しなかった。バタイユはおそらくそれを表現して次のように言う。

「マネの魅力は、逡巡、ためらいに由来しないだろうか。(中略)傷つきやすく、ためらいがちで常に緊張している−−疑念を抱いてこの上なく緊張している。それが無関心とは正反対に、私が唯一マネに抱くことができるイメージである。おそらく震えは、彼の手に本質的な動きであり、主題がもたらしたかもしれない約束事的な感情には従わなかったが、なんらかの秘めた性情を常に暴き出していた。※15」

「ためらい」が、マネの絵画を多義的なものにしている。それをPlateaという言葉の持つ「通り」でもあり「中庭」でもあるという多義性と重ねて論じてきたわけだが、論じる際の重心をもう少し否定性に傾けると、マネの絵画はPlateaというより、「敷居」になる。つまり、「通り」でも「中庭」でも無い場所だ。ベンヤミンは先に引用した箇所のすぐ後で、こう述べる。

「だがそれは本当に乗り越えであったのだろうか。むしろそれはわがままと好色のために敷居の上に踏みとどまることではないのか。この敷居が虚無に導くものであるという事情がもっとも有力な動機になるためらいなのではないのか。だが大都市には虚無に通ずる敷居に立てる場所が無数にあり、娼婦たちはこの虚無の祭祀の巫女なのである。※16」

 マネは、「大建造物」から「通り」へと飛び出て、「中庭」に住まうことが究極的には「虚無」であると察知していたのだろうか。娼婦たちが「虚無の祭祀の巫女」であるならば、マネの絵は「虚無の祭祀」を外から描いていると言える。彼女たちの空虚な目線は、マネの絵画が単なる色彩と形態の戯れという「虚無」へと滑り込んでしまう危険をそれとなく示唆してくれているかのようだ。手の「震え」と娼婦たちが、マネの絵画が単一の意味に還元されてしまうことに抵抗している。マネは絵画それ自体の秩序というほとんど完璧なフィクションへの可能性を開いたが、彼の芸術自体はエロスの感覚を、生の根源的感情を、色濃く残している。彼は絵画を単なる表面にまで押し進めることをためらったのだ。

 それは、マネの絵画に描かれたモデルが、基本的に他者として現れていることとも無関係では無いだろう。ミハエル・バフチンは高名な『ドストエフスキーの詩学』の中で、ポリフォニーという技法をドストエフスキーの作品に見出している。それは、登場人物の声が、作者のそれと同程度の重要性をもって表現されるような形式である。ポリフォニー小説の中では、小説を構成する各要素は、一つの完結したイメージに従属することがない。例えば『カラマーゾフの兄弟』においてイワンが語る「大審問官」のように、そこで展開される思考の深さによって作者自身が結末に用意していた論理に傷がつくことさえありうる。

 マネの作品における他者は、画家自身の意図を越えて作品にポリフォニックな様相を与えている。「通り」に飛び出たのちに「中庭」へ終生住むことは結局「虚無」へと繋がっているが、マネは、「通り」でもあり「中庭」でもあるというほとんど不可能に近い道を行くことで「虚無」を回避することに成功した。ためらいや震えは、マネの作品の傷であり、また何よりも尽きない魅力の源泉なのである。

菊地匠

※1 ゲオルク・ジンメル『橋と扉』酒田健一 熊沢義宣 杉野正 居安正 訳 白水社 2020, 39頁。

※2 キャロル・タロン=ユゴン「マネ、あるいは鑑賞者の戸惑い」ミシェル・フーコー『マネの絵画』阿部 崇訳 ちくま学芸文庫2019, 115頁。

※3 ヴァルター・ベンヤミン「複製技術の時代における芸術作品」『複製技術時代の芸術』高木久雄 高原宏平 訳 晶文社 1999, 22 頁。

※4 ジョルジュ・バタイユ『マネ』江澤健一郎訳 月曜社 2016,53頁。

※5 マイケル・フリード『没入と演劇性 ディドロの時代の絵画と観者』伊藤亜紗訳 水声社 2020参照。

※6 バタイユ前掲書 36頁。

※7 クレメント・グリーンバーグ「モダニズムの起源」『グリーンバーグ批評選集』藤枝晃雄編訳 勁草書房 2005。

※8 同上 53-54頁。

※9 ノバート・ショウナワー『世界の住まい6000年 ②東洋の都市住居』三村浩史監訳 彰国社
なお、ここで「中庭住居」と比較される「西洋の住居」とは、キリスト教文化圏の建築様式のことであると思われる。「東洋の都市住居」と言う副題がついているものの、この本には中東の古代文明やギリシャ・ローマも収録されている。要するに、地理的な要因というよりは、中庭のある建築様式を東洋的都市住居と表現している。キリスト教文化圏の強大な約束事の影響から一歩進んだマネが東洋の芸術に影響を受けていたことなども、ショウナワーの「中庭住居」の理解と重なっており興味深い。

※10 例えば私の出自である芸大日本画も構造としてみれば一応権威ではあるが、芸大日本画を否定するという動機で制作をしたところで、マネが相手にしたものとは歴史も権力も比べものにならないので、結果として作品もとるに足らないものとなってしまうだろう。

※11 またそれは、私の目から見たマティスの芸術とも共通した時間性でもある。(菊地匠「芸術における『隔たりの思考』」小松佳代子編著『美術教育の可能性―作品制作と芸術的省察』勁草書房2018 参照)。

※12 小松佳代子「地平の創造と「今ここ」の責務―菊地匠の個展によせて」(本書所収)を参照。

※13 ヴァルター・ベンヤミン『ヴァルター・ベンヤミン著作集12』小野昭次郎編訳 晶文社 1971, 136頁。

※14 ミヒャエル・ニーダーマイヤー『エロスの庭 愛の園の文化史』濱中春 森貴史 訳 三元社 2013 72-79頁参照。

※15 バタイユ前掲書 73-74頁。

※16 ベンヤミン前掲書136頁。

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