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25歳になりました

ちょうど原稿を仕上げているタイミングなので、さの兄さんの文章を読んでいるわけなのですが、書き残すことの意味を目の当たりにしている。

というわけで、私も誕生日ログ残すぞって決めました。構成も見出しもさの兄さんを丸パクリしています。無断です。とりあえず、24歳の最後にまたとてもだいじな出会いをいただいてしまったということです。

さの兄さんの誕生日ログ、とてもおもしろいのでぜひ読んでみて。やさしいです。アイキャッチは斜里岳。

25歳になった

昨日25歳になりました。原稿が書けなくて悶絶していたら25歳になり、恒例行事のように胃がねじれ、編集担当に電話でダメ出ししてもらった。いつもありがとうございます。

あとは「いい刀の抜き方」を目の当たりにし、原稿が終わったらやりたいことをお伝えする宣言をし、グッとくるお返事をもらい、誕生日終了した。なんせ初稿提出日ですからね、ハッピーバースデーじゃん。


大学生の頃から10歳くらい年上の人と一緒にいることが多すぎて、相対的に「若い」と言われ続けてきたが、いい加減、絶対的にもうそんなに若くない。昨日の夜なんて初めて全力で足を吊ってどうしようかと思ったもん。

おかんは25(たぶん)に結婚して26に私を世に放っている。だからどうというわけではないのだが、さすがに「まじかあ」という気持ち。

さすがにこの歳になると今の道でどれだけ太いことをやっていくかという気持ちになってきた。この1年での大きな気持ちの変化かもしれない。
上記の4つはいずれもそういう感じ。「自分にしかできないこと」よりも「自分がいなくてもうまく回るようになること」に強い興味が出てきた。それはある意味で「自分にしかできないこと」に到達できて、ある程度認められたからなのかもしれない。
もう人生長くないなという気がしてきた。やりたいことも去年や一昨年からは大幅に絞られてきたので、限られたリソースをうまく使って、やるべきことを粛々とやっていきたい。

さのかずや「26歳になりました」より

さの兄さんが26歳になったブログにこう書いていて、安心した。

そう、明確に「もう人生長くないな」という気がするのだ。時間の流れ方に感じるスピードも24歳の途中で変わった。確実に、スピード増してる。

インタビューも、これまで自分より年下の方だったのは一度だけ(一歳下のりゅうちぇるさん)。あとはぜんぶ、人生の先輩たちだ。先輩たちに自分の悩みを相談しながらアドバイスをもらうインタビューをしてきた。

でもそろそろ、「年下」「若さ」的切り札が、自分の気づかぬうちに勝手に助けてくれる時期は永遠に終わるのだろう。

そして、私の場合は「自分にしかできないこと」には到達していない気もするけれど、さの兄さんの書いている「自分がいなくてもうまく回るようになること」に興味が出ている。

ここらへん、さの兄さんが取材で聞かせてくれたことが今後の人生に全力で響いてくる予感。Facebookぜひ。

24歳のふりかえり

去年の今頃に書いたnoteがこちら。

自分のために定期的に書き残しておくのは良い。だってこのnote、何を言っているのかわからないんだな。それがとてもおもしろい。

2019年3月、「ほぼ日の塾」の最終課題として発表した記事がありまして。

この記事のことを、

やりたいことの窓が曇りやすい私が、何度でも「リスクを背負う理由」に立ち帰れる記事。これからの人生を一緒に歩みたい宝ものになりました。

おかげで決断するための材料が揃った3月。さて、重要なのはこれからです。

って書いているわけです。

「リスク」「決断」が何なのか思い出せなくてさかのぼったら、この時点で半年住んでいる滋賀にもう一年住む&長期取材を始めること、だったらしい(この頃家がなくなる可能性があり、声をかけてもらった福井に引っ越すか悩んでいた記憶がある)。

「え、当時の自分にとってはリスクだったんだ」が、一年後の感想です。今だって7月以降は家が決まっていないんだけれど、もはや不安がない。順調に野良で育っています。

とりあえず、滋賀に来ていなければ選ばなかった選択があり、見えなかった世界があり、知らなかったことが膨大にあり、何より出会えていなかったひとがたくさんいることはたしかだ。頭のなかにパッと思い浮かぶ顔、滋賀に引っ越してから出会ったひとばかりだもんなあ。

滋賀暮らしをふりかえるnoteはまた別で書くとして、引っ越してからの「初めて」メモをここに置いておきます。順不同。

スノボ、DJの機材を触る、レコードを触る、テントサウナ、釣り、てっぺん超えて友だちと遊ぶ、空き家、原発で働いたことのある友だちと話す、原発のある街(敦賀)に通う、原発稼働前後の街の変化について聞く、土着の選挙活動について聞く、知らない人が野菜をくれる、道路のど真ん中で寝る、いろりを使う、初めて行った人の家にそのまま泊まらせてもらう、トラクター、たけのこ掘り、スナックに行く、へび、いもり、ビアガーデン、マッチをつける、ライターで炎を出す、雑魚寝、教習所、運転

本当はもっとたくさんあるんだろうね。思えば1年半前に東京から滋賀に引っ越したときは23歳ですか、まじですか。23→25、とっても大切な時期を過ごさせてもらっている。

とりあえずぎりぎり22歳でフリーランスになって定期収入の契約に頼り、その契約を終えた9月に滋賀に引っ越し、24歳になる頃まで半年間は綱渡りで(月4万円の収入だったから綱渡れていない)、一年前からインクワにゆるやかに所属し、めぐりめぐるご縁で雑誌『ターンズ』で巻頭を担当させていただき、1号飛ばしてその後は毎号2本分担当させていただいている。

たくさんの方にお世話になり、月4万円ではなくなった。クラファンの支援をしたり「こういうものが未来に残ったらいい」と思うものを買ったりできるようになった。未だに月単位だと収入が半減したりしますが。笑う。

一応親の金銭的援助を受けず(免許代を祖父母に出してもらったけれど)、独立財政で生きてきた。メンタルが図太くなりすぎたのか、お金にあまり引っ張られなくなりました。どうもありがとうございます。

フリーランスになってから謎の何かに勧誘される人は多いのだ、自分も勧誘された、という話を何度も聞いた。私には今のところ音沙汰がない。世間知らずで危なっかしい自覚はあるが、学んできたことと出会ってきたひとたちのおかげで、自分の嗅覚はわりかし信じられる。リアルな嗅覚はない。

この前、岐阜取材で今尾さんに「それって、自分に自信があるってことですか?」って聞かれた(取材しているのは私)。自信はたぶんそんなにあるわけじゃないけれど、自分を信じて託して見守ってくれるひとたちを信じている。そのひとたちが信じてくれている自分を、できれば信じたい。

きくちの人生を、期待せずに期待しながら、おもしろがって楽しみにしてくれている人たちがいる。そのひとたちの期待に応えずに、期待をいい感じで壊して思いっきり超えていきたい。

私の人生でいちばん大切なものは、出会ってきたひとたちだ。それだけは、ずっとたしかだ。

長年私の文章を見てくれている編集担当が、「きくちはずっと変わらず、きくちとして大切なものを大切にしているように見えるよ」と言ってくれて、うれしかった。

25歳の目標

そういうひとたちのおかげで、25年も生きてくることができた。本当に本当に、生かされている。

だからこの命をちゃんと使っていきたいよね、未来のために。って初めて思ったのが24歳でした。25歳は行動に移していきましょう、てことで目標。

1. 長期取材した価値を世に示せる形に落とし込む。
2. 神奈川・東京・滋賀以外の場所にも住んでみる。
3. 一人で海外に行く。
4. 自分で手を動かして書くことをやめない。
5. 本を読む。
6. 書くこと以外の仕事を形づくり始める。
7. 同世代と対話する時間を確保する。
8. 人の挑戦への一歩目を応援する。
9. 発信を続ける。
10. 家族を乗り越える。

泥だらけになりながら巨人の肩もお借りし、積極的に定期的に自分の価値観をぶちこわしながら知性を磨き、自分の柱を少しずつ太くしていく。

そして、受け継ぎたい人たちとの対話をあきらめず、受け継ぎたいものを自分なりに受け継ぐ方法を見出していきたい。

オホーツク出張のおかげで、もっと知らない世界を見たい、どんどん飛んで行こうと思えた。そしてTwitterをする意味を、書き続ける意味を、見出した。怒りを表明する理由を知った。がんがんオープンソースにしていこう。

あとは今のところのテーマはやはり「境界線」らしいと、これもオホーツクのおかげで実感した。20代のうちにパレスチナとチベットに行こうな。30代に入ってもいいから、南極も行こう。

そのためにも、お金を稼ぐ必要がある。お金がなければ、お金がある範囲でできることしかできない。お金をまわしたい未来がある、未来のために使いたいお金がある。自分が満たされないまま人にまわすのは限界がある、どうしたって。

だから、やり方を変えていかねばならんのです。

ライターの仕事って私の得意なことを3割も使っていない自覚があり、他の7割は今の働き方と仕事内容だと使いにくいので、どうしたもんじゃろと思いつつ何もしてこなかった。好きなこともわりと7割にあったりする。仕事をつくれていないだけで、7割のほうが得意ではないかと思ったりもする。

いきなりお金にすることを目的にしなくていいから、でもお金にしないことは目標じゃないから、目標は見失わずに、お金にしてもしなくても動き続けていきましょう25歳。

次につないでいくには、それくらいフルスロットルでいかねばならんのや。

25→26

さの兄さんの記事を書いていく過程で、自分のやりたいことが明確に出てきた。取材のときは「やりたいことがなくて」「常に焦る」とさの兄さんに相談していたはずなんだけどな、変わり身が早いな。

おせっかいをしてでもできれば生きていてほしいひとと、つなぎたいものはあることを自覚した。過去の自分が残したこのへんもヒントだ。

だからもう、どこに住むとかなんの仕事をするとか、そこらへんは手段でしかないと思える。どの手段を選んでも、自分は変わらない。

一年前は不安だったのだろうけれど、今は、人生そんなもんなんじゃない?という気持ち。

今年も、私はいつでもどこにでも行ける。どこに住んでいようと誰といようと、私が大切にしているもの、人、考え方を大切にしていればいいわけだから、ちゃんと大切にしていこう。今年はそう思えている。住んでなきゃ大切にしていないと思われるかもしれない、という不安は、単に自分の真ん中を決め切れていないだけだったのかもしれない。ひとのせいにすな。

もういい大人だからさ、ちゃんと希望を語っていたいし、行動していよう。口先だけで「希望」とか言う大人になるなよ(自戒)。

一人でできることは小さいと知った。でも誰かと手を取り合ってみんなでできることを大きくするためには、一人でできるほんっとうに小さいことを少しでも大きくする努力が必要だと知った。誰かと手を取り合うことを逃げにしたら、目指す未来にはたどりつかない。

だから。背負いすぎず、次につなぐために、努力して走り回って今のうちに限界突破して、とにかく動き続ける。頑張って!


愛を灯しましょう。身体の中心に。
今こそ、ずっと茫漠たる、正体の解らない存在だった、愛というものの実体験を、実感を持って確実に触れ、抱くチャンスです。(2011/3/12)

愛を灯しましょう。それはちょうど、心身の真ん中にです。
そして愛というのは、何やらステキで温かい事ではない。自分の命への妄執をチャラにするという事です。(2011/3/14)

菊地成孔『レクイエムの名手 菊地成孔追悼文集』


ここまできくちを見守ってきてくださったみなさまに、心からの感謝と愛を。みなさまから思いと意志を受け取って、真ん中に愛を灯せる自分であれるよう、そしてこのような毎日のなかでも、みなさまがご自分の愛しい日々をすこやかに過ごされるよう、祈ります。

そして25歳のきくちも、どうぞよろしくお願いします。もしよかったら、どうか見守っていただけるとうれしいです。うーん、さの兄さんの誕生日ログよりめちゃくちゃしゃべってしまったなぁ。

はい、原稿原稿!!!!!この原稿を世に出すまで生きる!!!!!!


悪循環をその人はその場で、大勢の人には行き渡りませんよ、けれど自分の心の中で悪循環を切ったわけです。(中略)私はやっぱりね、1本のマッチになりたいと思った。

犬養道子 2004年年越しトーク「心に灯をともす」


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