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『欲求について。』

2021-7-28
 近頃は物事を捉える上で、「善悪」という二項対立よりも、「欲求」を土台として考えた方がよりシンプルに捉えられるので見通しがよく、クリアーな感じがしているなう。愛することも、奉仕することも、私(あなた)に備わっている欲求に基づいて動機付けられている。あァ、なにかスッキリする。スッキリしちゃう。「正義」という名の呪縛から解放される感じがする。どうですか。


 例えば。おそらく海水浴帰りの客が道端に捨てていったであろうゴミが落ちているとする。私はそれを拾い持ち帰る。このときの私の行動は善悪によって動機付けられた行動ではなく、ゴミが落ちているのが好ましくない、環境を汚したくないのでできれば片付けたいという、あくまでも個人的な欲求、あるいは自分が思う現在の社会規範(あくまで可変的な)に正しくありたいという社会的な承認の欲求、自分自身からの承認の欲求を満たすために起こされたものだと考えた方が、圧倒的に整理がつけやすい。


 欲求というものは食欲や性欲を例に取ればわかるように、確かにここに在ることを手応えとして感じることができるが、一方で善悪というものは非常に曖昧で複雑だ。ゴミを捨てることが悪で拾うことが善だと、どうして言えるだろうか。私には人を断罪することなど到底できない。

 欲求に基づいて考えれば、ゴミを捨てていった者には捨てたいという欲求、そこには自分自身の存在証明を誇示するためのマーキング的な目的が隠されているかもしれないし、あるいはゴミと自宅の大阪や神戸まで一緒にドライブんなんてまっぴら御免だ、つまり排泄物は身近に起きたくないという衛生上いたって本能的な欲求によるものかもしれない。

 マズローの欲求の五段階説にあてて考えたとき、私と相手では欲求の段階が違っていたとして、私が承認の欲求、あるいは自己実現の欲求を持つことができるのは私が善であるからなどでは微塵もなく、あくまで偶然的な環境要因によるものである可能性が高い。だとすれば“捨てる側”も“拾う側”も欲求の名の元において全くイーブンな存在なのだ。

 余談ですが、ダイアモンド博士も「欧米人ってなんか偉そうにしてるとこあるけど欧米の文明発展が早かったのは優れた人種だったからとかちゃうで、ただただラッキーな環境だっただけやで。勘違いすんなよ」(意訳)、と言うてました)


 対等、それは非常に得難く、決して安定しないからこそ、私はこの言葉が好きだ。天秤になにかを架け、それらを釣り合わせようと試みるとき、我々は非常に慎重になるだろう。そっと手を離した瞬間、奇跡的なバランスによって双方が釣り合った刹那、私はそこに小さくあたたかな喜びを見る。

 そう、私は正真正銘の天秤座の男である。

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