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やっちまう人間に、私はなりたい

「現実を変えたいのに変わらないと嘆く人は胸に手を当ててよく考えてみるがよい。あなたは実のところ、現実が変わらない方が自分にとって何かと都合が良いと思っているのだ。だから現実が何も変わらないのは当然なんである」

というような記事を読み、なるほど…と思うなどする。

◯◯が欲しい
◯◯になりたい

そう心から思うのならいつかは叶う。欲しいものは必ず手に入る。それがいつかはわからないしどんな経路でやってくるかもわからないがいつか必ず手に入る。貴方がそれを、心の底から望むなら。

ということらしいです。

全く予想もつかない経路から欲しいものが手に入ったという経験は私にも何度かある。私はその願いを持っていたことすらすっかり忘れていたけれど、ある日ふと「これは…」となった。
「これはもしかしてもしかすると、数年前に思い描いていた光景そのものではないですか?」と。

自分の脳内で(ああなってこうなってお次はこうなって…)などとこねくり回して戦略を練っていたわけでもないし努力と呼べるほどの努力もしていない。
もちろん行動はしたが、ゴールを狙って動いていたわけでもないから達成感も何もない。気がついたら手に入っていたという感覚で、要するにそこには期待がなかった。そもそも戦略を立てられる頭脳もないし、瞑想すらできないのがこの俺だ。(目を閉じたら寝てしまう)

何だかわからないけど自分が望んだ光景がある日突然眼前に広がっていたという感覚。人生はアメイジング。どこでどうなるかなんて、本当に分からない。


私には今、欲しいものがある。でもその手にしたいものが全く手に入る兆しがない。だから思い切って自分にこう聞いてみた。

明日、突然に、その一番欲しいものとやらが手に入ったら、あんたどうする?

神様かなにかが「いいよ!欲しいならあげるお!」とか何とか言いながら欲しいものをポンっと渡してくれたら、さぁどうする?さぁ!


えっとー

困る!


えええええええっ?!???ですよ奥様。

(何この、1人芝居感。あと感情大忙しかよ)


多分だが、それは怖いからだ。
要するに怖い。それを手にしたことで少なからず今が変わることが怖い。
「変わることが怖い」という気持ちは人間の生存本能としては当然かもしれないけれど、私にとっては最上級にダサい考え方である。他人はどうだっていい。変わるのが怖いと思っている自分がただただダサすぎて震える。さっきから自分に問いかけたり困ったり驚いてのけぞったかと思えば震えたりと大忙しだが仕方がない。

でも自分を真っ直ぐに見つめてみたら、結局のところ変化が怖いのだ。なら死ねよ、と言われそうだが怖いものは怖いのだ。欲しいものが手に入った未来が描けない。どうしていいかわからなくて怖いのだ。だから要らないのだ。だから手に入らないのだ。当たり前だろ。

なぜ怖いのだろう。なぜそれを手にした未来を素直に喜べないのだろう。ここにヒントがありそうなので瞑想でもして答えを探ってみたいが目を閉じようものなら寝てしまう。それでも、何か答えが、というか答えは要らないから
欲しいものが手に入ったぜ!yeeeseeeeeeeeey!!!!!!のテンションが欲しい。絶対楽しいだろそんなの。そう思える自分になりたい。なれる。のりこ、お前ならできる。

多分、考え方の視点を変えたら答えのようなものも見つかるかもしれない。こちらから見れば5度しか見えないものでも、みる方向さえ変えれば355度もあるのだ。諦めるなのりこ、お前なら、できる。


「時間があれば、お金があれば、◯◯をやりたい。と言っている人は時間とお金が手に入っても結局やらない」

これを言っていたのは誰だっただろう。誰かは忘れたが耳が痛い。その通りだと思うからだ。

転職する前に1ヶ月間のお休みがあったにも関わらず結局バイトばかりしていた私が保証する。まとまった時間が取れたら◯◯や◯◯に行きたいとか何とか色々言っていたのに結局どこへも行かなかった。
本当はどこにも行きたくなんかなかったのだと思うし、ひとり旅をする勇気もなかった。綺麗な景色は好きな人と見たい。美味しいものは好きな人と一緒に食べて、おいしいね、って言い合いたい。だから行かなかった。そして何よりお金を稼いでいると安心できたのでひたすらに働いた。労働人生、ここに極まれり。
はぁ…なんだかこんな自分、ダサすぎるな。。。

本当にやっちまう人というのは時間もお金もどうにかなるしどうにかする、の精神でやっちまうもんである。そういう人を見て羨ましいだのズルいだのと、私は言うことができない。私もやっちまう人間になりたい。違う意味においてうっかりやっちまうことはあるが、何事においてもまずはやっちまう人間に、私はなりたいのです。

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