最近考えていること
留学期間が折り返し地点くらいまで来たので、ゆるゆると今後の進路について考えている。
一貫性の怖さ、つまり柔軟性の喪失が嫌で(あと当たり前に私という人間の矛盾や流動性、多面性を一つの方向にまとめることはできないので)意識的に自分の進退を決めすぎないようにしていたことと、コロナを経験して予定が狂ったことが重なって、ここ1年くらい計画ということをしていなかった。
計画、というのは私で言えば、基本的に2年生で引退するサークルもきちんとやり遂げて、3年生までに留学をして、院に進むにしても就職するにしてもばっちり4年ストレートで終わらせる、という学習計画や進路について事細かに決めることを指すのだけど。
2年生も3年生も、勉強の合間にやったことないことをやってみること、知らない人にたくさん会うことに夢中だった。それが何か一貫性を持った結果として残っているかというと全くそんなことはなくて、全てにおいて過程だけが目的。その過程を終えて、私の中に解釈や経験だけが残っている。例えば、私は絵を描くのは好きだけど0から1を生み出す才能は無い とか、私ってつくづく初対面のコミュニティにおいて魅力がないな とか。でもそんなの私の進路を決めるのに役に立たないと思う、それに困ってる。
面白い授業受けてレポート書いて世界と自分を理解して、ってのをずっとやってたいんだけど難しい。就活でアピールできそうで一貫性のある活動や経験を予め考えて実行することをやめた自分に納得しているはずなのに、こうやって大学という一つのタームが終わろうとすると、やっぱり焦ったりする。
1年生からスキルを得られるバイトとサークルを続けつつ2年生から堅実な会社でインターンをして、3年生から就活本格化、4年生でしっかり卒業して新卒で働き始める子、自粛期間中にTOEICの勉強をする子。私と同じ学年を生きてコロナで不自由があったはずの同級生がしっかりこなしているのを見ると、私は怠惰だなぁと思う。
だけど怠惰という概念も資本主義の元生まれたものなので、うるせー!とも思うし、アピールできて使える商品になるために生きてるんじゃねえ!とも思う。(あと本当に心がささくれだって悲しくて苦しくてそれどころじゃなかった。)
でも、こういう主張をするには私は普通すぎるとも思う。中学生から大好きな、山﨑ナオコーラの『浮世でランチ』という本に出てくる犬井くん。彼は「ワタクシは自分の人生が、もっと思いもかけない風に転がってくといいと思ってるのよ」と軽やかに言ってのける。私もそうなりたいのに、実際のところロンドンにいたってしているのは学校と家の往復や散歩、美術館訪問で、思いもかけないことは舞い込んでこない。これは私が心中では変化を恐れているのか、ガッツが足りないのか、何なんだろう。
とりあえずいろんな国を回って、写真を撮りまくって(一眼レフの授業を取っている)、本を読んで、授業を受けて…っていうことをしたい。日常が驚きと事件に溢れている人はどうやって生きているのか教えてくださいね。(それとも私の感受性がラノベ主人公の如く鈍すぎて気付いていないのか?)
バラバラで読みにくくてごめんね、バハハーイ。
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