拝啓、敬愛するねこふじかおる先生

 ねこふじかおる先生の作品を初めて見たのは小学生の頃、実家の家ではテレビでYouTubeが見られたからテレビと3DSでYouTubeを見ていた。ヒカキンさんや水溜りボンド、レトルトさんの動画を拝見させていただいていた。
 そんな時にはまったのがレトルトさんが実況していたCHARONのヤンデレホラーゲーム。
 レトルトさんがヤンデレホラー劇場という名でまとめ実況していたヤンデレホラーは見たことのない世界で当時の私が求めていたグロとホラーの世界観があった。でも、それ以上に歪みつつも美しい愛があった。人を傷つけてまで貫く愛なんて愛なんかじゃないと普通の人なら言うかもしれないがその時の私にはCHARON作品のヒロインが相手を愛し頑張るヒロインに映った。きっとなんでこんなに頑張れるんだろうというのが先にあって、そのあとにこんなに必死になられたいと思うようになった。つまり私の性癖が曲がったのはCHARONを運営するねこふじかおる先生のおかげというわけである。
 キャラが可愛いとかキャラの愛の強さに惹かれてねこふじかおる先生のファンになったわけだがそこから少し進むとCHARONの作品の別の要素が見えてくる。
 ヤンデレの中に普通の人として生きれなかった悲しみが強く出ていて、そのキャラが救われないことで救われる人がいると思う。
 話は少し変わるが森田蓮次さんという方と萩本創八さんという方が描かれているアスペル彼女という漫画の中で出てくるヒロインのセリフに
「ハッピーエンドにされるとムカつくんです 有りえないのに だからいじめられてそのまま絶望的に不幸になっていくリアルな話を読むと癒されるんです これなら他の人にも現実が伝わるなぁって」というセリフがあってこのセリフを読んだときにふとCHARON作品を思い出した。この作品で救われている人たちだっているんだろうなと思ったのだ。
 ちなみに私自身はCHARON作品の救われなさには救われなさの美があると感じている。救われないことで美しいままでいられる、そんな美があると思うのだ。英雄譚だって英雄のその後なんて描いたら平凡さでしらけてしまうかもしれない、だから不幸せで止めるのが一番美しい。
 それでも、ある一方には幸せを望む自分もいたわけだ。そんな自分を救ってくれたのがサイコロサイコifルート、救いの手を差し伸べてくれるルートもファンとしては望んでいた。でもやっぱり救われないエンドの方が好きだったりした。
 救われなさの美についてもっと語るとナチュラルサイコな娘はいつつ、なんらかの事情を抱えている娘がほとんどで生きていくのって難しいよなという共感ができるのだ。
 生きていくのは難しくて息をするためにみんななにかしらの泥を啜っている。人間関係であれハンディキャップであれその泥を啜る行為に苦しみあえぐ日々だ。そんな私たちが共感できて、何ならあちら側から共感してくれる、これがCHARON作品なのである。
 以上の理由からねこふじかおる先生を崇め奉っている。

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