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「名前のない女たち〜うそつき女」映画

中村淳彦さんの映画説明文

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「名前のない女たち~うそつき女」は、AV業界の日常がそのまま映像化されていた。あまりにそのままなので、本当に驚いた。映画となれば現実から少し離れたエピソードが盛り込まれ、観客に臨場感やカタルシスを提供するのが普通だ。しかし、本作は様々な事情を抱えながら、裸の世界に漂流した底辺の人々の日常が淡々と描かれる。そのままの底辺なんかに価値があるのか、映画化というのは偉人にスポットを当てるものではないのか、というのが驚いた理由だ。
 筆者を含む底辺の当事者は、いったいこんな日常になにか価値があるのか?と常に疑問を抱き、目の前の明日を乗り切るだけの日常を送る。常に小さく荒み、でも、どこにでもある憂鬱な現実。その価値があるとは思えない現実が切り取られた作品に思いっきり引き込まれた。底辺の完全再現、なかなか面白いじゃないかと思った。
 ゴミ屋敷で精神を病みながらギリギリ生存する女、自分のことしか考えていない自己中な女衒、寂しさから猫を殺した壮絶な過去を告白する女、そして突然誰かが消えるように死んでいくのも、そのままだ。AV業界は本当によく人が死ぬ。社会的な死を含めれば、もう膨大な人数だ。しかし、誰が消えてもなにも変わらない。昨日と同じく、明日を乗り切るだけの憂鬱な日常が淡々と続くだけ。そして数週間もすれば、その人の存在は忘れ去られる。もう、何人死んだだろうか。なにも残すことはなく、消えるように死んでいくのが筆者を含めたAV業界人の標準的な運命といえる。
 そして、城アンティア演じる企画AV女優のヒロイン葉菜子と、アイドルグループCABDYGO!GO!の元メンバー円田はるかが演じる葉菜子の妹明日香は、激増する貧困シングル家庭で育つ無数に存在する姉妹を凝縮したようなリアルさだった。
 現在、日本のひとり親家庭の貧困率は50パーセントを超える。溢れかえる生まれながらに貧しい子供たちを、大学奨学金、クレジットリボ払いなどでさらに首を絞める社会だ。経済的に困窮すれば、裸やセックスを売る選択をする子供たちは必然的に増える。困窮による選択は本人の性格や好き嫌い、環境を簡単に超える。葉菜子が大切に想う恋人と同棲しながらAV女優をする本作の舞台は、その現実を象徴している。
 葉菜子は大学奨学金の返済のためにAV女優になり、恋人と同棲しながらその選択をなんとなく肯定している。感覚的に社会や未来に絶望する妹、そして叶うことのない夢をしがみつく恋人は、葉菜子の優しさに甘えて様々なモノをどんどんと奪う。持つ者に群がり、奪うのは全国どこにでもある貧困の風景だ。葉菜子はどんなに頑張っても、その環境がある限りは貧しさから抜けだすことができないだろう。無情な無限ループである。
 そして、主演吹越満が演じるAVライター志村だ。底辺な業界の周辺をウロつくAVライターが映画になるなど、常識的にありえないし、AV強要が社会問題となる中で目立ちたくないので“自分ではないように…”と願いながら試写を眺めた。しかし、どう見ても自分だった。
 副題「うそつき女」というタイトル。底辺から抜けだしたいと思う志村は、狭いあっちの世界(AV業界)も一般的なこっちの日常も知る。志村の存在はあっちの世界と社会の細い架け橋であり、男に都合のいい女を演じることが正義となる狭い世界で演じる葉菜子を認めつつ、社会にその存在を伝えようとする。筆者はあそこまで波風立つような言い方はしないが、彼女を認めるからこそ「嘘ついていますね」の一言が出てしまう。根深い男尊女卑が徹底的に染みつく世界の常識は、一般社会には到底通用しない。
 現在、AV業界や性風俗には葉菜子のような女の子が膨大にいる。裸を売っても明日は乗り越えられるだけで、負のループが渦巻く貧困からはなかなか抜けだせない。葉菜子も、おそらく幸せになれる可能性は低い。なんとかならないかと思うが、ライターではなにもできない。その無力さからも、延々に抜けだすことができない。無情な世界なのだ。