根拠のない明確なやりたい、から始まった

社会人4年目を迎えようという春、ふと、最近思うことがあった。
「そもそもメディアに関わりたいと思ったのはなんでやろう」と。

振り返ってみると大学生当時はメディア界の人間に必然的に期待されるような発想力や企画力はある方とは思えないし、初対面でコミュニケーション能力を発揮できるのは時と場合によりけりだし、文章を書くのは嫌いではないけどうまいとは思わないし、最先端のメディア情報に敏感で知識豊富、でもなかった。

でも、そもそも人生の大部分を占めてきて心の拠り所であり続けたスポーツと、“伝える”ことを主とするメディアの掛け合わせには明確にやりたい、と思った。その根拠なきやりたいを土台に展開された3年間は、紛れもなく苦しかったりしんどかったり泣き喚きたかったり以外の何者でもなかったけれど、そんな3年間を経てこれも明確に思うことがある。(もちろん節々でよかったこともある)

「大学3年生の自分の決断に後悔はないし、むしろ、選んで本当によかった」


あの時の根拠なきやりたいは、どこから来てて、今になっても続くのか、自分でも不思議な時期さえあった。

でもきっとそれは、思いをもって何かを伝えることを考えるのを仕事として取り組めることに、常に深さを感じてきたから。そしてそれは、実は自分が一番苦手なことだから。多分。

高校生くらいを機に、めっちゃくちゃ小さいことが気にかかって、ずっとモヤモヤしてしまったり、どう思われているのかなあと気にかけることが多くなった。自分の話に興味がある人なんていないだろう、とも。運動好きだし、基本的には仲良くなれば普通に好き嫌いがはっきりしているし自分の軸はすんごいあるし明るいし楽しい感じだけど、そんな自分とは真逆の自分がどこかにいるような感覚で、そんな根拠なき不安は突如として襲ってきたりする。何かを伝えようと思って準備してイメトレしていっても、真逆の自分がなぜか片隅にいて、うまく伝えられないことが多い。時間とともに忘れるしまあいいや、の繰り返し。なんでこうなるのかわからない、この真逆の自分と向き合いたい。これがずっとあった。真逆だけど、どちらも自分やなあと、なんと無く理解できる部分もある。

だからこそ、誰かのことを、しっかりと伝えたい。
面白い企画でも、真面目な企画でも、伝えることと向き合ってみたい。
きっとそんな思いがどこかにあって、「仕事」としてある意味強制的に真面目に向き合える環境に、惹かれていた変態な自分がいるように思う。


これまで、そして今も公私ともども関わってくれている方々には、本当に心から感謝しているし、社会人3年間ほど、忘れない3年間はないと思う。






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