「らしさ」について考える

いわゆる「らしさ」というのは曲者だ。

要求されるスペックであるような、ステレオタイプであるような、そんな気もするし、
「自分らしさ」といった瞬間にすべてからの解放であるような気にもなるからだ。

常日頃考えている、「らしさ」について。

まず、「自分らしい」というのは、本当に"自分らしい"のだろうか。

今まで自分がこうしてきた延長線上に乗っかっていくことが、
果たして自分らしいのだろうか。
それがもしも、本当に自分がやりたいことを無視するなら、
他から見た「あなたらしい」という枷に過ぎないのであって、
本当に自分がのびのびとした「自分らしい」振る舞いではないはずだし。

今、日本で語られている文脈において、「自分らしい」はほぼ「あなたらしい」として語られているように思えて、非常に危険な存在に感じる。

ジェンダーの話をしていても、
よく、「『男らしい』とか『女らしい』というのは嫌い。『自分らしく』生きるのがいい。」という話を聞くけれど、これも違和感を感じる。

たとえば、性自認が男にある人が、男らしくなりたいと思ったっていいと思うし、
性自認が女の人が女らしく振舞いたいと思うのであれば、
それはそれでいいと思うのだ。

そういう人たちから、その男らしさ/女らしさを剥奪してまで、無色透明な「自分らしさ」を押し付けるのはおこがましすぎやしないか。

さらに、自分を女だと思う人が、男らしく豪快にありたいとか、
自分を男だと思う人が、女らしい細やかな気遣いを身につけたいとか、
こういうことだって、古い人は眉をひそめるかもしれないけれど、
本来は大いに個性として歓迎されるべきだと思う。

では、「自分らしさ」とはなんだろう。
とどのつまりは、自分が思う「自分」という、
ちょっと恐ろしいレッテルであるように思う。
「自分はかくあるべきだ」というような、自分に対する制約とも取れる。
それによって、秘めた能力や、隠れた楽しみに目をつむることになることも、少なくはないだろう。

そもそも、「らしさ」について考えると、
自分に貼る「ラベル」という側面と、気味の悪い「おばけ」のような側面とがあるように思う。

「ラベル」であるならば、自分の属性(たとえば女という性自認だとか)にかかわらず、
欲しい「ラベル」を集めていけばいい。
それが「男らしさ」であったとしても、「女らしさ」であったとしても
まったく構わないと思うし、その人がその人の魅力として昇華していけばいいだけの問題だ。

まずいのは、「おばけ」の側面のほうだ。
少し調べればわかるけれど、「らしさ」だなんて、
時代とともに変わっていく。
その時代によって、その属性に求められる役割が変わるんだから、これはしょうがない。

HEROというドラマがはやったけれど、
あれは「検事らしさ」というおばけを見事に倒した検事の姿の小気味よさが爽快に映ったんだろう。

さらにいえば、「自分らしさ」なんて、秒速で変わっていくとしか思えない。
個人の意見を言わせてもらうならば、そのとき、そのときで自分のしたいことを選択していくのが本来の「自分らしさ」であって、
そうでなければ何かにとらわれているはずだ。

囚われているものが、もし、「自分らしさ」だとしたら、どんなに皮肉なことだろう。

個人的には、「らしさ」だなんて難しいことを考えずに、
無邪気に気楽に生きていきたいものだけど。

#エッセイ #らしさ

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