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令和6年能登半島地震と私の感じた人間の善意 [エッセイ]

地震が発生した当日の夜に書いた文章にほとんど手を加えず公開しているため、文章としては読みにくいかもしれません。ご了承ください。


地震の発生

2024/1/1、午後の4時10分頃。令和6年能登半島地震が発生し、関東圏にある自宅もそれなりに揺れた。ただ震源地から遠方であったため、はじめは「おやちょい強めの地震だったかな?」程度の認識であった。しかしツイッターなど見ると石川県の方では最大震度7の相当大きな地震であった。驚いた。津波警報などが発令されているという情報も目にし、東日本大震災の時を少し思い出してしまった。
はじめの地震発生から10分後、私は自分自身の運営(共同運営だが)するディスコードのコミュニティー、「軍事を語る会」で雑談のような形で安否確認を始めた。自分の中ではまだ、この地震はちょっとした安否確認程度で収まるものだった。
NHKのアナウンサーの口調が、津波の危険を伝えるために緊迫感のあるものに変わっている。その話がツイッターのタイムラインに流れてきたときも、この震災はまだ自分の中では微妙に現実味のある話ではなかった。「そんな工夫があったのか、やるな、NHK」程度の認識であった。

自分ができること

自分の中でその認識がスッと非常時に切り替わったのは、一つの時事通信のニュースツイートを見たからだ。4時43分。「【速報】政府は官邸危機管理センターに官邸対策室を設置した」という文だけの短いものであった。不思議なことに、この言葉の響きは自分のそれまでなかった緊張感や足りていなかった危機意識を一気に作り出した。
映画シンゴジラの中では、アクアラインで事故が発生する冒頭のシーンで「官邸対策室」が設置される。映画を見た時は大変緊迫感があり少し怖かったものだが、そこから連想される「なにかとんでもない事が起きているのではないか?」という感覚がこの危機感に繋がったのかもしれない。どちらにせよ、何かをしなければならないと感じた。5時4分。「軍事を語る会」の共同運営者に「地震をうけて、一応で全体に連絡入れます」と連絡し、5時14分にはコミュニティーの全体向け連絡で、被災地以外にいる会員に向けデマなどの情報に気をつけることや、適切な情報源(NHKや国など)を用いる事などを注意喚起する連絡を行った。

地震に関して
主に被害の小さい、震源地から遠方の地域にいる @軍事を語る会 会員 の皆様にお伝えします。
数分前に発生した大型の地震に関してですが、まずは公共放送(NHK)や内閣府防災の公式ツイッターなどの信頼できる情報源を必ず参照してください。
これらの災害時には、高まった危機感などを悪用したデマ情報などが発信されやすいです。リツイートなどの拡散を行う場合は必ず一度待って、事実かどうかを確認するなどしてください。
これからの余震などにも十分注意してください。懐中電灯や非常食の場所の確認など、できることを行ってください。

軍事を語る会 会見室

私が避難を促すなどは場違いに思えたし、そもそも現地にいる人達はディスコードなど見る暇がないだろう。私の出す情報が間違っている可能性も十分あり得る。だからこそ、被災地外の会員を対象とした注意喚起を行った。

それからしばらくの間、ツイッターを眺めていた。またディスコードのコミュニティーでも自衛隊の公式ツイッターの出す「哨戒機を出発させた」だとかの情報を共有した。また気象庁の記者会見があるということだったのでそれのリンクを貼るなどした。これらも自分に今できること、をやろうとしていたのかもしれない。

人間の悪意と善意

様々な情報が飛び交っていた。恐ろしいのは、時にデマのような情報が流れていることで、その中には被災者を装ってツイートのインプレッション数を稼ごうとするような、悪質なものもあった。また陰謀論者は人工地震だとかのワードを使い始めた。ほかに、画像生成AIを用いたデマに対する注意喚起などもあり、なんとなく災害のあとの人の悪意や弱さを感じた。

しかしそのような悪意や悲しい情報が渦巻く情報の中にも、時に善意のようなものがあった。先述したアナウンサーの緊迫感というのもそうだ。それを評価している声もそうだ。自衛隊の航空機が救援のために出発した、という情報もあった。原子力規制委員会が出来得る限りのモニタリングの情報(原子力発電施設が大丈夫かどうか)をあげていた。津波の情報を韓国語に翻訳してくれたFFさんもいた。手書きのテロップを書き入れて避難を呼びかけたテレビ局もあった。テレビの音声切り替え機能を紹介する英語のツイートもあった。徐々に内閣総理大臣や石川県の知事などのツイートが目に入った。誰もが懸命に、被災者を救うための仕事をしていた。

ツイッターがXとなったことで発生したAPI制限により、有用な情報獲得手段であるNERVのアカウントが自動投稿できなくなった。しかし、これに対して英語で声をあげて、直接Xを管理するイーロンマスク氏にメンションをする人もいた。これを受けてなのかはわからないが、この制限はすぐに解除された。
道路のライブカメラが大量に動員され、道路の状況を確認できるようになっていた。当時ストライキをしていたジェットスター(格安航空会社)の労働組合はストライキを一時切り上げ、臨時便に備えた。

自衛隊の災害派遣が始まった。東日本大震災の時に精神的な支えとなった、笑顔になれるような面白い格好をしている猫の画像をもう一度投稿する人がいた。新幹線などの路線が安全に使えるかを確認するための車両が走行している映像を目にした。災害時に使える簡単な料理方法を教えるレシピ屋がいた。石川からの応援がこれなくなったからと、明日の東京での試合の応援を求める部活があった。そしてそれに答える人達がいた。避難できた人達にクラッカーや水を配っている市長さんの話があった。事が落ち着いたら金沢の競馬場でギャンブルしようと言ったギャンブラーがいた。店員のいないコンビニでもカウンターに電話番号と代金を置いて買い物をする被災地の人がいた。寒い空港で毛布を配る人達がいた。被災地に向かう警察や消防の車列に、「頑張れ」と言う人達がいた。
誰もがその時できることをしていた。あるいはその時は無力であっても、被災者に、日本中の人々に心を寄せた投稿をしていたりした。

私はなんとなく、安心感を覚えた。もちろん、被災地では今後の見通しもたたないまま、時間が過ぎている。私には想像できないほどの大変な事態がそこにはある。
それでも、こうやって善意をもって人のためにできることを行う人達がいるこの社会に、私は安心したのだ。

終わりに

地震から6か月以上も経った今、まだ復興のために様々な人たちが活躍してくれている。東日本大震災の時と同じように、復興は年単位で時間がかかるのだろう。自分ができたのは地元のボランティアに参加して募金やら土嚢を送るやらを少し手伝った程度である。要は現地にも行っていないわけだが、できることはしたつもりである。今後もできそうなことがあれば積極的に参加しようと思っている。
当時書いたこの文章がドキュメントとして残っていたので、どうせならと公開することとした。

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