見出し画像

2021春の記録として。

ジェンダーを扱う授業の最終課題で、「自分の身体を生きる」とはどういうことか、という問いに向けて書きました。ジェンダーの話はほとんどしてないけど 。春いろんな授業を重ね合わせて考えていたことは、こんな感じ。

夏休みで小休止しているところはありますが、「知覚」と「時間」、それらが重なり合う場に「生きる」ということにといて秋以降も考えていかずにはいられないだろうなあと思っています。そんな楽しい(?)予感が増した、2021春の記録として。生とは切っても切り離せない、けれど私には到底知り得ない、世界の深さ。その気配を微かに感じ取りながら。


『生きることと知覚することに関する小考』

 「自分の身体を生きる」とは、<私の身体>が世界を知覚し、その「いま」を不断に更新していくことではないか。これを仮説とし本レポートでは、身体をもって生きる私たちのあり方について考察していく。そもそも私たちは何をもって自己の生や身体を自覚しているのだろうか。常に世界に晒されながら揺れ動く不安定な知覚でもって、各々が<私>の生きる「いま」を了解していられるのはなぜか。そこには言語や映像といった文明の発明が、過行く瞬間に知覚された事物、生の体験を構成する事柄を固定し私たちの知覚を押し広げることで貢献しているのではないか。
 まず第一に、世界を知覚するということについて考えよう。知覚にまつわる問いを追究した哲学者の中から、アンリ・ベルクソンとモーリス・メルロ=ポンティとを取り上げる。共に知覚する人間の有様を明かそうと試みたふたりだ。彼らの世界と身体の関係性の捉え方を比較してみる。「豊かなものは身体の外にあるこの世界」(前田 2010,159)であり、知覚とはそれを身体の有用性に応じて縮減し引き出すことだとベルクソンは述べる。その一方で、メルロ=ポンティは「始めに豊かな知覚があり、それを日常の観念や習慣が再構成」(前田2010,160)するのだと論じている。ふたりとも世界と身体の関係性を取り扱い、その関係性の中に知覚の運動を見出しながらも、それが働く方向性は相互に逆を行くと考えるのだ。ここで、世界と身体の関係性に関する問いを追究することはしない。その代わりに人間がことばを持つということについて考えよう。
 私たち人間が受けてきたことばの恩恵は計り知れない。高度のコミュニケーションを支えることばは、個人の感覚や経験を他者に共有可能のものとしてあらわすことを可能にする。また、しばしば思考を深める助けにもなる。このことを深く受け止め扱った人のひとりとして、マルティン・ハイデッガーが挙げられるだろう。彼はその著書『存在と時間』の序論で、自分が存在していると了解しながらも、存在とは何かわかってはいない私たちのあり方を言及している(ハイデッガー、1994)。私たちはことばを使って自己のあらゆる生の体験、知覚の集積を自己の外に現出させるのだ。
 自らの生の体験をわざわざ言語化し、身体を伴う知覚から身体を遠ざけるのはなぜだろう。ここに、世界と断続的に交わり合う中で受け取る情報に意味を見出す私たちのあり方が見て取れないだろうか。豊かさを世界の側に見出すか、知覚の側に見出すかという点に違いがあったけれども、ベルクソンとメルロ=ポンティは私たち人間の知覚を世界をそのまま、あるがままに受け取るものとしては捉えなかった。私たちは身体をもって世界と関わりを持ち、そこで得る情報を解釈して自分が置かれている現実を、つまり<私の身体>が生きる場としての「いま」を更新し続けているのである。
 <私の身体>とは何か。これは、三人称的・客観的な身体とは必ずしも一致しない一人称的な身体の有様である。メルロ=ポンティは身体が世界内に存在することを、身体図式ということばを用いて表している。例えば、私が今椅子に座っていることを私が知っていることは、つまり私が「身体の姿勢と位置を統合的に把握する」(熊野 2005,59)ということはこの身体図式による。メルロ=ポンティによれば身体図式とは、「私たちの身体的な経験の、ひとつの要約」(熊野 2005,60)である。これにより私たちは蚊にくわれた位置を目視することなく掻くこと、スクリーンを見たままタイピングをする事が可能になり、幻影視のような問題が立ち現れるのである。身体は、各々が身体の輪郭を離れて更に拡張し得るものなのではないか。
 拡張する身体の支えとなるものとして、言語や映像といった文明の発明を考えてみよう。先に論じたように、ことばは<私の身体>が世界に接触するときに出会う、あらゆる物事に輪郭を持たせることができる。<私の身体>の生の経験を固定し忘れるのではなくその身体にとどめておくことに加え、あらゆる時間、場所を生きる他者のそれを共有可能な観念として<私の身体>にもたらす装置である。このような点でことばは、われわれ人間の知覚を押し広げる役割を担っていると指摘できる。
 19世紀フランスで誕生した写真に始まる機械映像もまた、私たちの知覚を押し広げる重大な発明である。日高優氏はその著書『映像と文化 知覚の問いに向かって』において、共に走る馬の様子を題材とした、テオドール・ジェリコーによる絵画《エプソムの競馬》とエドワード・マイブリッジによるギャロップする馬の連続写真を比較し、私たち人間の知覚と機械の知覚から規定されるそれぞれのリアリズムの差異を論じている。氏によると、絵画には「走るという持続の運動の時間」(日高 2016,34)が凝縮して描写されているのに対し、写真には「瞬間の切断面」(日高 2016,34)が、つまり私たち人間が知覚できないスピードで「凝結した瞬間」(日高 2016,34)が描写されているのである。機械映像は、人間に不可視の瞬間の世界の有様を、その脱人間的原理によって知覚し、視覚イメージとして精密に描写する。世界に充満する光をありのままに受け取る機械知覚は、私たち人間が<私の身体>をもって知覚している世界の有様に重大な示唆を与えてくれる。映像が描写する、潜在的な世界の有様、そのあふれんばかりの細部を私たちは映像を通して知覚することができる。機械映像が真に客観的にものを見ることを可能にするということではない。常に「いま」を生きる私達がリアリティとするものは、自身の生の体験から得た知覚であり、その解釈である。機械による知覚すらも<私の身体>の知覚を通して受け取る私たち人間のあり方は、その両者が本質的に異なる世界への姿勢をとることを明らかにする。機械知覚のあり方が我々の日常に現れてくることで、傍らに交わらない他者が存在しそこに己の現実にそぐわない何らかの違和を感じることで、私たちは世界を新たに見つめ直すことができるのみならず<私の身体>が日々行ってる知覚について新たに知ることができるのである。例えば、私たち人間の知覚は機械の知覚に比べ精密さに欠ける。瞬時にその場の物質の有様を固定すること、おろか知覚することは私たちの身体には到底不可能な仕事である。しかし、機械は私たちのように時を凝縮して、例えば馬が走る様を迫真の運動として捉えることはできない。機械は世界に意味や物語を見出す感性を持たないからである。同様に機械は、身体図式のような世界に展開する広がり、世界との接触に際しての柔軟な姿勢を持たないのである。
 ここまでの論を整理していこう。私たち人間がこの世界に在って、それを知覚するということは<私の身体>をもって生の体験を更新すること、その営為である。私たちは、世界に生きて出会う有象無象の事物をことばや映像をもって身体の外におくことで、瞬間を固定し、共有可能のものとする。「自分の身体を生きる」とは、世界を見つめ、知覚することだ。また、世界にあらゆる意味を見出すことだ。知覚が先か、身体にとっての意味が先か、という議論に答えは出ないが、知覚ということを扱った知の巨人はそのことばを介して私たちに彼らの生の経験を共有してくれている。<私の身体>は不断に世界に接し、その身体が置かれた環境を捉えようと志向しながら生き続ける。それは生の体験が置かれた時の先端、「いま」を断続的に更新しようとする姿勢なのである。
 私たちが世界を知覚すること、ここに存在すること、生きるということ、など人間の深さを人文学の領域を通して探ることは、私たちが生きる様々な尺度および角度での「いま」を見つめる人々がそこに存在する限り、必要な試みとして在り続ける。様々な思想、信条をもって、様々な背景を背負い時の先端を生き続ける私たちは、本質的に通じ合うことはできない。しかし、己の生の体験を固定し他者の<私の身体>に近づけることで共有される部分があることは本論でも述べた通り事実である。ジェンダーの問題をはじめとする様々な格差は社会に多々存在する。それらは不可視の問題であることも往々にしてある上に、私たち人間が持つ共感力は未だ乏しい物である。私たちの知覚のあり方を探り、その拡張を考えることは、他者の生に思いをはせる視点を、そのための知覚の有様を探ることにつながるだろう。人間の根源を求める営為の意味をこの点において私は知覚する。

【参考文献・引用文献】
・ 前田英樹、2010、「メルロ=ポンティかベルクソンか」『道の手帖 メルロ=ポンティ』河出書房新社
・ マルティン・ハイデッガー、1994、『存在と時間 上』(細谷貞雄)、筑摩書房
・ 熊野純彦、2005、『シリーズ・哲学のエッセンス メルロ=ポンティ 哲学者は詩人でありうるか?』、日本放送出版協会
・ 日高優、2016、『映像と文化 知覚の問いに向かって』、幻冬舎

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?