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小説|なまえ-ごかけ


落ちてはいなかった。多分。私は今、橘鈴菜の前にいる。
「鈴菜ちゃん、私はあなたを探していたけどまた会えるとは思っていなかった。」
「ごめん杏果ちゃん、私、あなたのお母さんを殺した。それはあなたが感じた通り本当なの。」

こんな時、なんて話を進めたらいいんだろう。確かにあの時私はその現場を目撃し、震え、憎み、そしてそれがみんなの中ではなかったことになっていることに憤慨して、証明できず、自分を責め、幻となった鈴菜ちゃんをずっと責めてきたのに、あの時と変わっていない幼いままの鈴菜ちゃんを目の前にして、憎しみが湧いてこない。 
懐かしく、ずっと探し求めていた人にやっと会えたという喜びだけが私の頭を、心を、身体を支配している。そんな感覚だ。私は昔にタイムスリップでもしたのだろうか。

「私、あなたにどうしても伝えなきゃいけないと思ってまた会いに来てしまったの。ごめんなさい。」
鈴菜ちゃんが話を進める。
私はたくさん聞きたいことがあるのに喉がつっかえたようで言葉が出てこない。

「ブルーの果実を作ってはダメ。それは真実じゃない。絵の具で塗ったようなもの、その雫は雫になり得ない。」
「どうして・・・」
私の喉から出てきた音はそれだけだった。それ以上は言葉で表せなくなっていた。
どうしてそんなこと言うの?
私が研究していることを知っているの?
それはなぜ?
ずっと見てた?
ダメという権利があなたにあるの?
今まで何してたの?
どこにいたの?
どうして歳をとっていないの?

・・・どうしてお母さんを殺さなきゃいけなかったの?

私は目を瞑っていたわけじゃないない。
けど気づいたら桜の花は散って緑の葉が生い茂っていた。一瞬で夏を迎えた桜の木が目の前にあるだけだった。
私は泣いていて、ふいた涙はブルーだった。


大学校が休みの日の研究室は実験が佳境を迎えていなければ基本誰もいない。
ほとんど誰もいない大学校の研究室が並ぶ研究棟、私の研究室だけがあかりを灯していた。先客がいる。今日もいるのかあの人は・・・。呆れる気持ちと誰かいてよかったとホッとする気持ちが混ざり合う。
「樹(いつき)先輩、あなたはもう卒業しましたよ。」
3月に卒業した後の春休みも、社会人となって働き始めた休みの日も、当たり前のように通い続けている一つ上の先輩。
「わかってるよー。ちゃんと。」
研究資料の本に目を向け、こちらに背を向けたままでそう言う。それだけ。顔は見えないけど、見つかってしまったと言うときのはにかんだ気持ちと、来るのを待っていたよと微笑んでるのが混ざったような顔をきっとしている。
「守衛さんもわかってるはずなのになんで鍵を貸してくれるんでしょうね。」
「わかっているから貸してくれるんだよ。」
今度は振り返って、微笑んでそう言った。
そして今度は心配した風に
「芝子、泣いたの?」と聞いてくる。
「え?泣いてませんよ。さっき強風に煽られて涙目になりましたけど。」
樹先輩は私の苗字を名前みたいに呼ぶ。
「そっか。ならいいけど。」
「というか泣いていたとして、そんなふうに聞かれて、はい泣いてましたって言う人います?」
「やっぱり、泣いたんだ。」
「泣いてませんよ。樹先輩のように卒業しても引き継いだ研究が気になって研究室の亡霊にならないよう、私がきちんと完結させるためにせっせと休みの日に研究室に赴く後輩を茶化さないでください。」
「どう?進捗は?あと少しのようだけど」
「勝手に書きかけのレポート読みましたね。怒りますよ。先輩の研究を引き継いだとはいえ、自分の研究としてプライドを持って取り組んでます。もちろん先輩の礎の上にあるのできちんと報告しますが、途中段階でとやかく言わないでください。」
「ごめんて。でもどうしても気になっちゃって。急かすつもりはないんだけど早くしないといけないような気がしてさあ。」
長い人差し指でこめかみをポリポリしながら本当に申し訳なさそうに言う。
「わかってます。私もなぜかわからないけど研究の締め切り日関係なく、早く仕上げたくて頑張ってるんです。」ブルーの実の真実を知りたいから・・。
「このあいだ樹先輩がくれた唐の伝承記には面白いことが書いてありましたね。平安時代、雨宮という男がシルクロードを通ってきた唐の僧侶からもらった青い果実を、種として育てたことが日本の葡萄畑の始まりと書かれていました。」
「そう。そして雨宮は一生をかけてその一本の木だけを目にかけた。その周りは枝を移植して畑として広げたけれど、雨宮は最初のその木を恋人のように可愛がっていた、と。」
「まるでうちの’聖なる木’ですね。最初になった実は青かったと思いますか?」
「いや、僕たちの知る、紫色のみずみずしい葡萄だったんじゃないかな。なんとなく。だからいつか僧侶にもらった通りの青い実がならないかと、育て続けたんじゃないかな。」
「そういうこともあり得るかもしれないですね。私たちの研究は、あと少しなんです。葡萄に合わせたブルーの染色体はできている。あとはこれを今の品種にうまく交配できれば理論的には青い実のなる果樹になる。なのに何回やっても失敗する。まるで今のままが完成形だと訴えるように従来のDNAが拒絶する。私、この伝承を読んだとき、少し思ったんですけど、最初青い実から為った紫の果実こそ完成形なのかもって。青いのはまだ未熟で不安定で進化の途中なのかも。それか栄養が詰まりすぎて耐えられず色の変化ということにエネルギーを流すことで破裂を免れた生き残り。私の葡萄畑でまれに見られるブルーの実は後者に近い気がするんですけどね、今は。」
「今は?」
「そう、なんかうまくいえないんですけど、小さいとき初めて食べてしまった時はまだ未熟なもの、まだ雫のようなものを見つけて食べてしまった。そんな感覚がしたんですけどそれ以降に口にしたものは今にもはち切れそうな柔らかいビー玉、みたいな、、。」
「僕も食べてみたいな。幻の実。」
そう言って先輩はなぜか遠い目をした。
「芝子のその考えでいくとさ、交配のとき、既存品種に交わらせるんじゃなくて、逆にしたらどうかな。」
「逆?仮想の実がなるまで作ってそこに既存品種を交配させるってことですか?」
「そう」
「それって、うちでいつ成るかわからない青い実を待つってこと、、?」
「そう」
そんな、、。それじゃあいつ研究が終わるかわからない。次の秋にもし一粒もならなかったら?ブルーの実がならない年もあるのに。今年ならなかったらはこの研究は引き継ぐしかなくなる。
「芝子が何考えてるかわかるよ。でもそれを待つことが必要に感じるんだ。その時に備えて僕たちは準備を万全にしておく必要がある。」
「準備、、。」
「そう、いざ実を見つけた時、すぐに実験に取り掛かれるするように段取りを整えておくんだよ。それも早秋までに。どのタイミングで現れるかわからないからね。それから心の準備も。」
「心の準備?」
「そう。ブルーの実をゼロから作るんじゃなくて、ブルーの実に手を加えるんだ。それはいけないことかもしれない。なんとなくそんな後ろめたい気持ちが少なからずある。でも何か理由をつけて実験しなくちゃならない。」
「理由?」
さっきからおうむ返しのような言葉しか出てこない。
「そう、正当な理由。僧侶や雨宮さんに怒られないような。」
「なんですか、それ。」
「それをこれから整理するんだよ。」先輩は何やらおかしそうに笑った。
「君の研究だろ?」

その後、私は樹先輩と研究室でコンビニで買ったビールと焼きそばを食べて帰った。
家に帰ると父と輪太郎が並んでテレビを見ていた。輪太郎はどうせうちで父のご飯を食べたのだろう。
「おう杏果、おかえりー。」
「おかえりって私の家だよ。」そう言って部屋に上着を置きにいく。
「また研究室の先輩かよ。物好きもいるんだなー。」
うるさいなあと思いながら輪太郎の言葉を無視して通り過ぎる。会ったこともない樹先輩のことをなぜたか輪太郎は悪くいう。はっきり言ってそういうところ、嫌いだ。
「晩御飯は食べてきたんだろう?」と父。
「お父さん、来週の日曜日、樹先輩が畑見にきたいって。いいよね?」
「おー、樹くんならいつでもいいぞ。剪定作業も終わって来月には雨よけビニールかけなきゃだしなあ。」
そうなのだ。剪定作業は三ヶ月くらいかけて父と私だけでやった。春に向けて伸びてくる枝枝をバランスよく切って配置を考える。枝や葉の広がり、実つき方、どこかにブルーの実がなるんじゃないかと想像をしながら。そう、寒い真冬に。苦行ではあるもののキリリとした空気の中、夢中になっていろんな角度で全体のバランスを取っていくその作業は嫌いではない。嫌いではないけれど、本当に疲れる。日没と同じくらいに私の1日の体力も大体尽きていた。それが終わって落ち着き、桜が散る頃には今度は梅雨に向けて雨を避けるためにビニールの用意をする。父は樹先輩に手伝ってもらおうと考えてるな。
「俺が手伝いますよ。」輪太郎がこともなげに言う。
「輪太郎、いつからうちの養子に?社会人として卸会社の仕事は順調なのかしら?」
「うるせえ、順調、多分、今のところは。今年も芝家の葡萄が豊作で、ちゃんと商品化されれば。」
「よくもお父さんの前で言ったわね。」
思わずソファの後ろに蹴りを入れてしまった。
「わっ」驚いたのは並んで座っていた父の方だった。
「ごめんお父さん。。じゃあ来週の日曜はちょっと畑見にくるけどよろしくね」
「了解」
その後もしばらく二人は並んでテレビを見ていた。

次の日、起きたら二人ともいなかった。当たり前だ。仕事に行っている。
私は修士学生の身でダラダラと寝てしまった・・・。普通に研究室に行かねばならない日だ。教授との共有ミーティングがある。伊盧夫教授は時間に厳しいから時間厳守だ。13時からのミーティングにもかかわらず遅刻は言い訳が立たない。
急いで支度をする。ショートカットしていくには桜広場を抜けるのがいいけど、なんとなく避けたくてなお急ぐ。

「お疲れ様です。みなさん。今日は予定通り各自の研究課題の進捗レポートの発表を10分ずつしていただきます。来月のミーティングでは、最終報告に向けたスケジュールの再提出とミーティング後に各自進捗に合わせて課題点の相談を受け付けます。相談がある場合は次回のミーティング1週間前までに連絡ください。希望者と時間調整をします。」
間に合った・・。汗は止まらないけれど平然とした顔で(そのつもりで)教授を迎え入れた。ミーティングは伊盧夫教授と4人の修士二年生メンバーで行われ、一年も希望者は参加して聞いていても良いことになっている。一年は大体三木さんと双葉さんと言う可愛らしい女子二人が常連だった。
伊盧夫教授は真面目で精悍な顔つきで、大学教授としては若い気がするけど年齢を聞いたことがない。いつも要件を最初にスッと言ってしまえる人で、さっぱりしていて私は好きだ。
伊盧夫研究室はいわゆる品種改良や新種発掘などをテーマにする学生が多い。私は葡萄の品種改良。他のメンバーはトマトの栄養素を増やすため、とか、品種改良による合理的生産性の向上など、世の中に貢献しそうな研究内容であるのに対して私の研究は糖度が高い葡萄の開発とかなり弱い・・。そもそも自分で言うのもなんだが’葡萄の精の秘密を探りたい’と言う乙女心が発端であり、理想の糖度は私の記憶の中、見た目はブルー!と言うのが本音でなかなかレポートとしてまとめるのが難しい。
それでもうんたらかんたらと8分間プレゼンをして、最後に昨日樹先輩と話した可能性について触れた。今年なる実に対して交配実験すると言うこと。
「芝さん、ありがとうございます。最後の交配方法の見直しですが、スケジュールとしては考えられていますでしょうか。」
「はい、伊盧夫教授。かなり厳しくはなりますが、遅くとも10月末までに実を摘出するとして交配の検証実験の結果としてであればまとめることはできると思います。」
「引継ぎ対象の研究として後輩に移管することも考えた方がいいかもしれませんね。」
「いえ、この研究は私の代で終わりにしたいと思っています。スケジュールについては次回のミーティング時にきちんと説明できるようにしたいと考えています。」
「そうですか、わかりました。」
話を聞いていた三木さんと双葉さんは少し残念そうな顔をしていた。
多分、研究の内容では一番ピュアに面白そう、と思ってくれていたのだろう。引き継ぎも考慮に入れてくれていたのかもしれない。

1週間と言うのはあっという間に過ぎる。
実験をことごとく失敗させた上に金曜の帰り道には通り雨に降られ、最悪の気分で帰宅した。
「ただいま、、」
「あっ、杏果、びちょびちょじゃないか。お風呂に入ってきなさい。」
「うん」
父が私の背中を心配そうに見ている気配を感じながらお風呂に向かった。
湯船に浸かっていると落ち着き、ゆっくり目を閉じる。
私の記憶の中のあのブルーの実、聖なる実の味は正しいだろうか。記憶は美化される。あの感動は絶対に最初に食べた時が一番美味しかったと思う。
そして橘鈴菜の話。どうして今、現れたんだろう。実験がうまく行かない故に夢を見たんだろうか。
だけどあれは夢じゃなかったと思う。んんん、、モヤモヤする、、、。結局もやもやを引きずったままお風呂を上がる。
「親父さん、先に寝るって。」輪太郎は少しほろ酔いのようだ。
「あ、そう。輪太郎もそろそろ帰る?」
「うん。でも一杯付き合う?」
いつも勝手に飲んで帰るやつなのに珍しい。何かあったのだろうか。
「いいよ。グラスとコンポート持ってくる。」
輪太郎はほっとしたように笑った。
「乾杯」
飲むのはワインでなくビールだった。
「お前、どの酒でもおつまみはコンポートかよ。太るぞ。」
「うるさいわね、これは何にでも合うのよ。一個食べる?」
「食べる。」
「何かあった?」
今日は輪太郎がやけに素直でおかしい。
「何かあった。でも話すようなことじゃない。」
「そっか。話せないことってことね。」
「そうとも言うかな。」
「大丈夫ならいいけど。私に話せないなんて誰にも言えずにストレス溜まるだけじゃない?」
「馬鹿、俺も一応男なんだから杏果に言わないことくらい山ほどあるわ。」
「そっか」
「何がおかしいんだよ」
「今日の輪太郎は可愛いなと思って。もう一杯飲む?」
輪太郎は黙って頷いたので今度は赤ワインを持っていった。
「ねえ、お母さんが死んだ年、同じクラスに橘鈴菜っていたの覚えてない?」
「、、、覚えてるよ。」

え。今なんて言った?覚えてる?私があれほど訴えたのに誰も覚えていなかった。存在すらなかったことになっていたのに。そんなことってある?酔ってるのか?
輪太郎はこっちを真っ直ぐ見ている。
「橘鈴菜。転校生で、その年この家のパーティーにもきた。その時のお前の一番の女友達。そして消えた。誰の記憶にも残らないで。」「いや、俺たち以外だな、多分」
輪太郎ははっきり喋る。

「嘘でしょ、ずっと覚えてたの。」なんとも言えない怒りが込み上げてくる。
「うん、ごめん。俺は覚えてた。」
「なんで今まで黙ってたのよ!私があんなに訴えていたのに!誰も覚えてなくて不安だったのに!」
「だからだよ!俺も橘の存在がみんなの中でなかったことになっているのがたまらなく怖かった。だけど杏果はあのままだとお母さんを殺したのは橘鈴菜だって聞かなかった!誰も存在すら認めてないのに、お前がおかしくなっちゃうんじゃないかとそれも怖かった!だから一度知らないふりをした。それからは二度と聞かれることもなかった。」
「そんなことって、、」
「ごめん。橘はいたよ。そして忽然と消えた。杏果に深い傷を残して。俺は許せないよ。」
「もう一杯飲む。」
「付き合う」
輪太郎は黙って付き合ってくれた。先週、橘鈴菜が現れたことは話さなかった。どうやって説明したらいいかわからなかったから。「もう一杯」は何十回も続き、いつの間にか寝ていた。

「杏果、いいかげん起きなさい!」
父の珍しい大声で起きた。ソファの上だ。布団がかかってる。
「全く、輪太郎を付き合わせてだいぶ飲んでくれたな。畑から帰ってきても寝てるとは。ワイナリー事業の会社は社員に任せたが畑は責任持って続けてるんだ。土曜だって休みじゃないんだぞ」
「うう、、飲みすぎたよ〜。」
そして思いっきり泣いた。泣き始めた私を父はぎょっとして固まっていた。それもそうだ。22にもなる女が子供みたいに二日酔いで泣き喚くなんて。ひとしきり泣いて、お風呂に入ろうとすると父がグラスに水を入れて渡してくれた。
あ、泣いてる間ずっと待ってたのか。
「ごめん、ありがとう。大丈夫。」
「父さんも泣きたいなー。」そう言って笑った。私も恥ずかしくて笑う。
「お風呂、入ってくる。」
「そうしなさい。」

結局その日はお酒を引きずったまま1日が終わった。
日曜日は9時に桜広場で樹先輩と約束をしていた。


日曜日、私は少し早めに桜広場に向かったのだがそこにはもう樹先輩が横になっていた。
「樹先輩、何時からここに?」
うたた寝の先輩を覗き込んで声かけた。
「1時間くらい前。まだちょっと寒かったけど、この木眺めてたらうとうとしちゃってたわ。5月になったばかりなのにもう桜全部散っちゃったんだなあ。」
「そうなんですよね。桜はすごく綺麗だけどあっという間。それがまた美しいと思わせるのかもしれないけど。」
「儚さってやつ?」
「そう言うやつ。この間、橘鈴菜っていう昔の友達と急に会って、でも不思議なことに、別れた日のまんまだった。12歳のまんま。変ですよね。」
橘鈴菜にあった日のことを思い出して、他の人に話すつもりはなかったのだけど口が滑った。
「スズは俺の妹だよ。」
「え?」

つづく

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