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待ちよみ®︎=自ら育つ子どもを「待つ」ということ

〈はじめに〉
待ちよみ®︎は
読み聞かせの方法をあらわす言葉ではなく
子育ての考え方を言葉にしたものです。
読み聞かせは子育ての一環ですので、読み聞かせ
にも
あてはまります。
「育てる」もの全般に当てはまります。
だから、わが社の野菜やエシカルローズ®︎は
「待ちよみ®︎」の考え方で育てられています。
農業体験プログラムに参加するのは
子どもだけではありません。
大人も参加します。そのプログラムも
「待ちよみ®︎」をもとに作られています。
弊社の農業と「待ちよみ®︎」の関係について興味がある方は、こちらの記事もお読みください。

〈待ちよみ®︎の誕生〉
「はじめに」に記したとおり「待ちよみ®︎」は読み聞かせの方法の言葉ではないとお伝えしましたが、
「待ちよみ®︎」ということばを内田早苗が考案したきっかけは読み聞かせの現場にありました。

絵本講師になったばかりの10年前に私は自宅のリビングを使って「絵本をたのしむ会」を始めました。
絵本講座をしたり、皆で工作をしたり、お茶の時間もありました。お昼ごはん持参してゆっくりすることができたので、会のあとに自由に絵本を読む時間もありました。

そうして何度も会に足を運んでくれるうちに
私とママたち(その当時パパの参加はありませんでした)にも自ずと信頼関係がうまれます。
だんだんと子育てや生活の悩みや相談を受けるように
なります。
そんなママの中の1人に、いつも控えめで私に積極的に話しかけてくることのない方がいました。
ある日、その控えめなママが私にぽつりとこう言ったのです。
「私は皆さんみたいに子どもを楽しませることができない」と。
これは、自由に絵本を読んでいる時間でした。
参加者の皆さん、めいめいがわが子に絵本を読み聞かせたり、おもちゃで遊んでいました。
「絵本をたのしむ会」という会に来るくらいですからだいたい皆さん絵本好きです。
そしてやはり、子育てに熱心な方が多いんです。
アレもこれもと体験や教室や集まりに積極的に参加している方が大半です。
つまり「元気」な人が多いんですよね。
絵本を読み聞かせる声も嬉々としています。そんな様子に、そのママは気後れし、自分と比較し、落ち込んでいたのです。

「子どもを楽しませることができない」という言葉には、読み聞かせがうまくできないということも含まれていますが、子育て全般において自信がないということを
言っていると私は感じました。

私はそのママをそれまでより良く見るようになりました。そのママと子どもがどんなふうに一緒にいるかを
見るようになりました。
そしてわかったことがあります。
絵本の時間、そのママは子どもが絵本を持ってくるまでずっと待っています。
もちろん自分自身も棚の絵本を見てはいましたが、ママが選んだ絵本を「これ読む?」と聞くことはしません。
子どもが持ってきた絵本を一緒に読み始めます。
控えめな方、と先ほども書きましたが、やはり読み聞かせの声も控えめで普段話しているのと変わらない口調でした。
子どもは絵本をみたり、時折ママのほうを振り返って何か話したり、目を合わせてニコっとしたら満足してまた絵本に顔を向けて読み聞かせを続ける。そんな繰り返しでした。

私は、その様子を見て
はっ!としました。

私が子育てで大事にし、大切に思う姿が
そこにあったのです。

ちょっと一息ついたところで
私はそのママに話しかけました。
「◯◯さんが◯◯ちゃんに絵本読んでるの
それでいいよ。すごくいいよ。」
そのママが答えました。
「えー、こんなのでいいんですか?」
でも顔は嬉しそうでした。
私は、このママにこう言いました。

そう!
これでいいんじゃなくて
これがいいよ!
◯◯さんの読み方がいい!!


私はこのやりとりがあったあと
絵本を読み聞かせることと子育てについて
さらに深く考えるようになりました。
私がこのママの読み聞かせを
いい!!と感じたのには理由があることが
わかりました。

それは、
そのママは、子どもを待つことができるからです。
子どもが絵本を選んで持ってくるのを待ちます。
声色を変えたり、テンション上げて読むことはありませんが、逆に読みながら余計な説明や指差しや質問をすることもありません。かと言って淡々と読んでいるかと言えばそんなことはなく、おかしなおはなしの絵本を読むときは子どもとくすくす笑い合ってます。
子どもがママの顔を覗きこんだときも、ニコっと笑い返しますが余計なことは言いません。子どもが言ったことに答えるのです。子どもが言葉を発するまで待つことができます。
絵本を読み終わった後も、せっかく絵本がいっぱいある場に来たんだから!なんて様子は一切見せることなく
子どもが自ら興味を示すことを見ていました。
わが子を良くみていました。ママから「こうしたらああしたら」は言いません。ですが、子どもがママも一緒にしてほしいと望んだことに応えます。
つみきやおもちゃも少し置いていましたが、子どもに遊び方を教えたり先にやってみせたりはしません。子どもが遊ぶそばで子どもを見ていました。子どもが「ママ、はい」と何かを手渡してきたら「ありがとう」と受け取ります。「ママ、ここ持って」とお願いされたら言われたとおり手をそえます。そうやって子どもが言ったとおりに言われたことをするのです。

私が感じたことは、この親子さんは親子間で良く目が合う。ということと、親からあれこれと手や口を出すことがないので、子どもが「ママ、◯◯して」とお願いすることがすごく自然であること、自分のしてほしいこと(意志)を伝える力があること。そして何より
この子の全身から「愛され大事にされている」が溢れ出ていました。

ママ自身は自分の子育てを「あまりうまくできていない」と感じているようでしたが、私は、このママの子どもと向き合う姿は
子どもが本来持って生まれてくる「自ら育つ力」を
尊重し、親ができるのは「子どもの望むこと」をできるだけ叶えること。という私が考える「親のできること」を十分にして、子どもにその愛情がしっかり伝わっている子育てに感じました。

私は、このママのように
「自分は子育てが上手じゃない」と思い込んでいたり、他の人の言動や、おそいかかるようにある子育て情報に押しつぶされている人に

あなたは十分、幸せな子育てができていますよ。
だって「子どもが望むことをする」ができているのだから。

ということをお伝えするために
「待ちよみ®︎」という言葉を作りました。

子どもには自らよりよく生きる力があり、自ら成長する力もある。
自分で楽しいもの、夢中になることを見つけます。
そしてそれを実行しようとします。
親がことさらに、
「楽しませよう」「より良く育てよう」なんて気負う必要がないのです。

待つことができたら、それが必然と「子どもの望むことをする」につながるからです。

このことをお伝えするのに絵本の読み聞かせは最適でした。
絵本、子ども、親
この3つの関わり合いが子育てそのもの
だからです。
絵本には作り手による子どもへの愛情がすでに存在します。子どもに伝えたいことはあっても「何か教えよう」なんて考えを持つ作者は存在しないと私は思います。
絵本をたのしむことは子ども自らの感性、感受性によりなされるもので、親(大人)ができることは、子どもに絵本がある環境を作ることです。
環境とは絵本という「モノ」が存在すること。あとは
読んでくれる人がいて、読み聞かせという「コト」が存在することです。

〈待ちよみ®︎という考えを発信するようになってから〉
「待ちよみ®︎」に救われた。という声は本当に多く寄せられてます。
助けられた、ではなく「救われた」です。
ですが、あえて批判的な意見からの私の考察をお伝えさせてください。

〈絵本を読みながら親の側から話しかけてもいいじゃないか。〉

私は「絵本を読むときに親は話しかけるな」とはお伝えしていません。子どもに問いかけたり積極的に親の側からおしゃべりを展開することも、「するな」とは言ってません。
私は「やりたければやれば」と言ってます。
私が言いたいのは、親がリードしなくても子どもは絵本を楽しめるということです。
先の例にあげたママは絵本を読みながらあれやこれやと子どもに色々と話しかけることができる親と自分を比べて、自分はうまくできていないと感じていましたが、それは無い、と断言します。
絵本は本文どおり、もしくは子どもが望むとおりに読むだけで十分、子どもの心を満たす豊かなことばと絵を届けることができます。
だって、「私の絵本は親がことばを足したり子どもに問いかけしてもらわないと足りない部分があるんです」という作り手は存在するのでしょうか?ありえないと思ってます。

絵本は、親が読むのがうまいとか下手とか、読み方がどうとか声色がなんたらとか早読みがいいだの、ゆったり滑舌よく読めだの、選ぶ力がどうだの、そんなことは全く関係なく、
子どもは自らの力で絵本を楽しむことができる。
ということです。自らの力とは「生きる力」という意味です。
子どもが望むのは、親のポテンシャルではなく愛情です。この子と一緒にいたい、言葉をかけたいという親の愛情と気持ちです。

愛情を子どもにわかるように表現することの行為の一つが「絵本を読む」です。書いてある文章のままでいい、普段話すときの口調のままでいい、それだけで、あとは子どもがどうするかを待つだけでいい。
私がそう伝えたい相手は
その「そのままでいい」に自信がない人たちにです。

親の側から話しかけるな、と言っているのではなく、
親の側から何か気の利いた言葉や問いかけができなくたって、読み聞かせの価値は何ら変わらないということ。
むしろ、自信がなかったかもしれないその読み聞かせは、子どものことを良くみてあげる、子ども自らが発する思いや言葉を待ってあげる、という点においては素晴らしい読み聞かせだということです。

今まで自信がないフィルターを通してお子さんを見ていた人はそのフィルターを外してみてください。
案外うちの子、幸せで満たされた表情しているな、と気がつくはずです。そして親の自分も案外よくやれているのかも、と自分を認める気持ちも芽生えます。

絵本で何かを教えたくなると親の側からの指差しや問いかけが増えます。この問いかけは語りかけではなく、子どもが理解できているかの「確認」作業です。
指差しばかりしながら絵本を読むと、子どもは能動的に絵本の絵を楽しむのではなく、親の指差しに従って絵を見るようになります。
このような読み方で短期的にモノの名前や数や色などの概念を理解したところで、長い目でみれば子どもの様々な育ちの邪魔を親がしていることになります。

絵本で親子のコミュニケーションというのもスローガンのように掲げられて、この「コミュニケーション」をたくさんお喋りしあうことだと誤った捉え方をしている人も多いです。
なので、絵本を読みながらあれやこれやと話しかけたり
「おもしろいね〜」「すごいね〜」「〇〇さんはえらいねぇ」「かわいいね〜」など、とにかく親側からの声かけが先行します。
私は、親は絵本を読むときに黙りを貫いてください、とか親は一切モノを言うなとか絵本の世界観を壊さないように淡々と読むとか、そんなことを言っているのではなく、親側からあれこれ口にする労力を、子どもを良く見てあげることに使ってほしいと話しています。
良く見てあげると、自然と親側からの声かけは減ります。なぜなら、子どもの視線、息遣いに気がつくからです。親が何も言わなくても絵を良くみていることに気がつきます。
子どもから何か言ってくれることもあります。それは親とは全く異なる視点だったり、親は気がついていないこともあります。
子どもを良く見て、待って、子どもが自ら発する仕草や言葉を受け止める。
なぜなら、それが面白いからです。
大人がリードして読み聞かせするより、子どもまかせで読むのがずっと面白いです。

〈ただ読むだけだと反応が薄い(無い)んですけど。〉
反応って何ですか?親から見て望ましいリアクションのことでしょうか。笑うとか何か話してくれるとかでしょうか。
子どもが無言だったら、あなたのお子さんの心は動いてないんでしょうか。
あなたの目の前にいるお子さんは人間じゃないんですか?

人間ですよね。心がないんでしょうか?
わが子に「心」があるなら、そこに絵本の絵や言葉は届きます。目にしたもの耳にしたものが脳(心)を通過しない人間はいないです。
身体が透けて脳が動いているのが確認できたら安心しますか?
確認できなければ安心できないのは、あなたは心の底から目の前のわが子の「心」の存在を尊ぶことができていないからです。
どんな小さな子でも、赤ちゃんでも、そこにいるのは唯一無二の人間です。身体と「心」が存在するのです。
絶対に心は動いています。目に見える反応なんか必要ないのです。


〈私の子育て〉
テレビ出演の際に出回った勝手なまとめ記事には
・転勤族のため孤独な子育てで悩んでいた。
・子どもが苦手で辛い子育てだった
・育児ノイローゼになった
などなど、色んな情報が出回ってますが、事実と異なります。

・私は、出産する前、子どもが苦手だった。
・子どもの相手の仕方は誰も教えてくれない。絵本は読むだけでいいから便利。
テレビで話したのはこのくらい。
そこにブログやSNSから引っ張ってきた情報を組み合わせ、ある意味見事な内田早苗物語が勝手に作られてます。

では実際の私の子育てはどうだったか?
ひとことでいうなら、「幸せ」に尽きます。
それは、産まれたばかりの息子を助産師さんから受け取ったときから今に至るまでずっとです。
育てやすい子だったからでもなく、悩みがなかったわけでもありません。
子どもが思春期に差し掛かる年頃にシングルマザーにもなりました。
それでも一貫して「幸せだ」と断言できるのには理由があります。
私は、子どもには自ら育つ力がある。ということを心底信じています。
親は「できることの範囲内で子どもの望むことをする
それだけで良いと信じていますし、そのようにやってきました。
子どもが望むことをする子育ては「面白い」です。

例を出してみると、私は小学生の息子に尾頭付きの刺身をよくご馳走様になりました。
魚の特徴や調理の工夫の話を聞くのは本当に面白かったです。
でも、そのためには、使い方を誤れば指が飛ぶかもしれないような包丁を自由に使わせていたし、炙りの調理をしたい子にバーナーを使わせたりと怪我や事故があったらどうするんだ!と怒りの指摘がありそうなこともさせていました。私はフルタイムで仕事していたので息子は1人で調理していました。
電車に乗って魚を買い出しにも行っていました。

私自身は魚はそれほどうまく捌けませんので、息子はYouTubeを観たり、料理人の本を読んだりして研究していました。
私のできることは、魚や道具を買うお金を出すことと、
75日間刺身が続いても毎日「おいしい」と言って食べることです。


よその子のことや、よその親がどう思うかなんて関係ありません。
私は、息子は雑な仕事で指を簡単に怪我することなどないと信じていたし、魚屋に行っても店の方を困らせることなく買い物ができるとわかっていました。

5.6年生のときの自主学習ノートには魚の絵と料理のレシピがぎっしりと書き込まれています。
色んなことをまんべんなくではなく、自分の好きなことを学習する息子を興味を持って見守ってくださる先生にも恵まれました。

もっと小さかった時の話だと、大勢の子どもがいる公園が苦手だった息子のために朝7時半頃から公園に行っていました。
理由は簡単です。息子が「行きたい」というのがその時間だったからです。
朝ごはんは食べ終えて、片付けもせずに公園へ行っていました。

夕方、電車を見たいという息子の望みを叶えるために3時間くらいは線路脇にいました。
晩ごはんを作る気力も時間もありませんが、食べるものなんかいくらでもどうにでもなりました。

私は自分から子どもに遊びを提案した記憶がありません。常に子どもが何かを始めるのを待っていたように思います。結果わかったのは子どもの相手に自信なんかなくても子どもをよく見て、子どもが望むことに応じていれば、それが1番子どもにとって満足いく遊びになるということです。
絵本の読み聞かせも子どもにとっては遊びの一つですから同様です。


勘違いしてほしくないのは、悩むことがない訳でも、始終楽しいわけでも、イライラしたり、しかることがないわけでもありません。
ただ、自分の中に一貫した子育ての芯、礎を持っていることで常に私の決断は「主語、自分」です。
そうして育てた息子もやはり、自分のことは自分で決めるという当たり前のことができる人に育っているように思います。
それは何より幸せだと思います。

〈私が発信する理由〉
絵本講師になり、多くの親子さんとお会いしました。
園や自治体主催の講演会講師のご依頼を受けるようになり多くのママたちに会ってきました。
私なりに経験を積み、「私は誰に何を伝えたいか?」をより深く考えるようになりました。
私は、「子育てを幸せだと思えない人」に会いたいと思ってます。
絵本と子どもと親の関係について私は話します。
その話を聞いて「子育ては幸せなんだ」と一筋の光がさすような話をしたいと思っています。

料理が得意な人が料理の先生になって教室を開いたり本を出したりするでしょう?
花のアレンジが得意な人も、収納が得意な人も、ヨガが得意な人も。
それと同じです。
私は「子育ては幸せなんだ」と思うことが得意です。
だから、得意なことを話したり書いたりして発信しています。
私自身、絵本を読んでいて実感することが多かったので、絵本を使ってお話しています。
絵本は「子育ての幸せ」を感じるのに最強だと思っています。
絵本を一冊、もし、すごく、たどたどしくであっても
子どもをよく見て読んであげることができたら、
それは、あなたが思っているよりずっと親として大切なことを子どもにできている、あなたはできている。
だから、読んでいる人は自信を持ってほしいし、まだ読んでいない人は、まず一冊、読んでみましょう。
絵本は味方です。親と子、両方の味方です。

〈待ちよみ®︎

信じるから待つのです。
愛情があるから読むのです。

「待ちよみ®︎」は信頼と愛情の言葉です。

2022.5.12
待ちよみ®︎絵本講師
内田早苗


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