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血道 大山美国カウンセリング記録

遠野病院精神科病棟 大山美国カウンセリング記録

【三月一六日 晴れ】


本人のみ 着衣や清潔維持に問題なし。自傷行為の痕跡(頭部のあざ、腕のひっかき傷等)あり、個室にて保護のため、身体拘束

 痩せた雀の死骸があって、なんでこんなところに……と思ったことを覚えています。
 すみません、いきなりこんなことを……ええと、そうですよね、わたしがどうして監禁されたか、ですよね。……ええと、私の名前は大山美国です。大きな山に、うつくしい国で、みくに。
 そうですね、自由にというと、不思議と思い浮かばないものですね……。
 私に何があったかをお話しするには、少し、地元の話をした方がいいと思うんです。
 よく驚かれるんですが、私の地元はすごく古い風習が残っているところで、私自身も大学に入るまで気づきもしないくらい、当たり前のように様々なしきたりのある家に育ったんです。
 本当に、絵にかいたような『田舎』で、東京から遊びにくる友人たちは怖いくらいだそうです。街灯もないですし、星はたくさん見えますが、真っ暗なんです。闇が広がっている、夜は闇の時間だということが、よく分かる土地です。
 そんな田舎ですから、いろんな文化も風習も、一緒くたに残っています。
 例えば、神棚とか。とても立派な神棚があるんです、実家には。その神棚にお供えする料理は女が作るんですが、お供えするのも、掃除をするのも、男の仕事なんです。
 それはね、割と普通のことなのかもしれないんですが、ほかにもわたしの家には細かいルールがたくさんありました。
 いわゆる旧家とでもいうんでしょうか。とにかく古い家なんです。家の屋根も大きくて、居間から見上げると梁がたくさん見えて、昔はそこで養蚕をしていたと聞いています。茅葺屋根をやめて、トタン張りの屋根にしたというのが形を見ると分かります。部屋の数も正式には数えたことはありませんが、襖を外せば宴会場になるような、そんな日本家屋です。
 名家というほどではありません。
 血筋が尊い家とかではないと思います、ただ、とにかく古い家なんです。場所も東北の寒村で、雪の深いところです。今でも小作さんがいて、田んぼをやってくれていますが、庄屋とか、その土地の代表を務める家ではなかったはずです。
 でも、どうなんでしょうね、あのあたりでは一番大きい家なので、一般的にいう名家ではあるんでしょうか。よく分かりません、自分では……。
 ただ、お墓は大きいです。お墓の敷地が広いというのが正しいのかもしれません。私が子供の頃、墓参りは一日仕事でした。
 今は禁止されたんですが、その頃はお供え物を持って行っていたんです。お盆には重箱にいっぱいのあんころ餅を、お彼岸には牡丹餅やおはぎを詰めて、天ぷらも揚げて、夜明け前から準備するんです。
 それを管理しているお墓の分、お祭りで焼きそばを入れるようなパック分かりますか? あれに詰めるんです。十個くらいかな。
 でも、これは名前のわかるお墓の分で、重箱に詰めたものは、無縁仏にあげるんです。膝の高さくらいの風化がはじまった無縁仏の墓石が、ずらーっと並んでるんです。数えたことはないんですが、百基くらいですかね。いつの時代の誰のものかも分かりません、ですが、大山の家で管理している墓なのは、間違いありません。
 それにも全部お線香と、お供え物をしていくんです。
 小さな緩やかな山肌に作られた古くからの墓所です。
 あそこにいくと、いつも、不思議な気持ちになったことを覚えています。
 あそこは、人生のおわり、世界の終わりだ、と、ずっと思っています。
 まぁ、墓場なんですから、当然なのかもしれませんね。山の稜線の向こう、透き通った空があって、田んぼも青々として、美しい土地です。
 美しさしか、ない土地です。(CL.が黙り込み面談中断)

【三月三十日 晴れ】


着衣や清潔維持に問題なし。自傷行為の悪化が認められる。指の爪が全てはがれている。

 Cl.昔から、よその人が死にに来る土地でした。
 そういう意味では、私は同年代に比べて、死に慣れているのかもしれません。
 はじめてみた死は、幼稚園の頃、近所のおばあさんが焼死した姿です。事故だったのか、それとも自殺だったのかはわかりません。大人たちがなかったことにしたので、私も尋ねることはできませんでした。
 ただ、幼馴染の子と一緒に、ぽかんと見ていました。臭いのことは不思議と忘れていて、本当は相当な臭いがしたはずなんですが、衝撃的だったんでしょうね、忘れてしまいました。
 覚えているのは、その家で飼っていた犬が、怖いくらい吠えていたこと。そして、燃えたおばあさんが盆踊りみたいに両手をあげて、苦しんでいたことくらい。
 幻を見たのかと思いました。
 でも、それ以降おばあさんを見なくなったし、野辺送りのあともありました。
 野辺送り……そうか、こちらはそういう風習がないんですね。地元では、ほんの数年前まで、お葬式は全部家でやったんです、近所総出で振る舞いを作ったり、用意をしたりして、火葬場にも自宅から霊柩車で送って、お骨になって戻ってきてもらう。
 そして、お骨になってから、みんなで墓場に持って行くんです。
 昔は、火葬場に行くんじゃなくて直接墓場に運んで行ったと聞いています。父は戦後すぐの生まれなので、土葬の頃を知っていましたから、棺を担いだことがあると言っていました。
 私が生まれたころには、さすがに火葬していたので、儀式は簡略化されていましたが、それでも葬祭場などで営まれる葬儀に比べれば、驚くほどに手間でした。
 はい、例の、無縁仏がたくさんある墓場で。ふふ、無縁仏で覚えてらっしゃったんですか? 不思議な感じがします、私にとっては百基あろうが、一基あろうが、無縁だろうが、縁者だろうが墓は墓です。
 野辺送りの葬列は、不思議なことにとてもわくわくしたことを覚えています。数えるほどしか参加していませんが、祖父の時にはお花を抱えて歩きました。
 順番も持ち物ももちろん決まっていて、みんなが示し合わせたように動くんです。
 私もその長く、真っ黒い列の中の一粒になって、ゆっくりゆっくり歩きました。
 親戚のおじさんが「ひいじいちゃんの時には、あっちに狐火が見えたんだ」なんて言ったりしてね。
 辻々にある蝋燭が、道しるべなんです。蝋燭持ちが火をつけて、最後尾の人間が消していく。そうして、墓場までの道、葬列が歩く間は火を絶やさないようにしていました。理由は知りません。
 理由は知らないけれどそういうしきたり。そうだということが、私の両腕では抱えきれないほどあったんです。
 野辺送りのあと、この蝋燭は四十九日まで残ります。四十九日に、同じ道を歩いていく。そうして、お坊さんにまたお経を唱えてもらうんです。
 今は、もう見なくなりました。
 でも、幼い頃は、あの蝋燭を見ると、ああ、人死にがあったんだ、と思ったものです。

 両親が共働きだったので、私は幼いころ、ほとんどの時間を祖父母と過ごしました。
 なので、家のしきたりや教えは、祖母が教えてくれることが多かったです。母は他の町から嫁に来て、しきたりに疎い部分もあったのだと思います。
 祖母や祖父から聞く話は、じわじわと紙に染み込むインクのように、私を足元から染めていきました。
 もともと、実家は曲がり屋のように、専用の厩舎ではなく、住まいの中に馬も暮らしていたと聞いています。
 祖母は裸馬に乗れました。男手がいなかったものですから、兵隊も出せなかったことを、平成の世になっても、恥じていたのを覚えています。
 戦争の時、軍馬の徴用のために家にいた馬を、隣町の御殿山に連れて行ったと話していました。ただ、その馬も徴用の基準より体が小さくて、徴用されなかったとか。
 祖母はよく「国のお役に立てなかった」と悔しがっていましたが、私からすれば、馬は戦場に駆り出されるよりも安全に暮らせてよかったと思いますよ。なにせ、本当に田舎で、空襲もありませんでした。近くの山に登って、軍需工場のある遠くの町が空襲にあうのを眺めていた……そんな土地でした。
 祖父は海軍に従軍して、太平洋上で沈没した戦艦から泳いで逃げ、フィリピンでのゲリラ戦を経験しています。
 終戦はアメリカ軍がヘリでまいたビラで知り、投降したと聞いています。
 私は祖父から直接ほとんど戦争の話は聞けませんでしたが、お風呂に入る時、左脇から腰にかけて大きなケロイドがあるのには気づいていました。
 その火傷の処理が大変だったことは聞きました。船が沈没する直前に、怪我をして治療中だった仲間に最後の水を一杯ずつ飲ませて、祖父は沈む戦艦から飛び降りました。背中は、その時に火傷したんでしょう。
 破片になった戦艦の一部につかまり、祖父は海を漂流。たどり着いた島で、火傷にわいたウジを木の枝でくり抜きあったそうです。食べるものがなにもなかったので、それも食べたと話していました。
 ただ、ゲリラ戦で何をしたか、何があったのかは、生涯孫娘である私には教えませんでした。捕虜として過ごした数年のことも。日本に帰還した港で、出迎えた群衆に身ぐるみはがされたということは、笑いながら話していましたけれど。
 ただ、戦争をしたということは、綺麗ごとではないのだと思います。加害者としての祖父の記憶に触れることはできませんでしたが、きっと祖父自身が触れられないほど、深い業をあの戦争は残していったんだと思っています。
 祖母は長女だったので、戦後復員した祖父が婿養子として大山の家に入りました。
 ……家にいた馬は、戦後、トラクターにかわりました。なので、馬が暮らしていた土間、稲屋の上に、部屋を増やしました。
 私が監禁されていた座敷牢と稲屋は、家の端と端の位置関係です。
 座敷牢は、もとは井戸があった場所でしたが、水が枯れてしまったらしく、潰して座敷をこしらえたんです。大山の家は、そういう増改築をよくしていました。
 私が生まれてからも、何度か。リフォームなんて言葉がまだなかったころでしたから、なんていえばよかったのか。やれ、稲屋の二階を作るんだ、稲屋をガレージにするんだ、梁の上に二階を作るだ……外見はあまり変わりませんけれど、中は結構変わったものです。
 それでも、一番奥の大きな座敷と、女の通路は変わりません。
 ああ、女の通路の話をしていませんでしたか。
 私には弟がいますが、地方の家ですから、手伝いは私しかしません。親族の集まりや部落──私の地元では普段からそういうので、そのまま話しますね、部落の集まりも定期的にありましたが、弟はお客さんとお寿司を食べたり、遊んだりしているんですけど、私は小学生になるころから、座っていることは許されませんでした。
 そういう給仕をするとき、女が通る場所が決まっているんです、水場から宴会をしている茶の間まで。男は真ん中の障子戸を開けるけれど、女は正座して隅の障子戸を開けたり。祖母が若いころまでは嫁入り前の子どもは晴れ着姿でお酌をして回ったというので、まだマシかもしれませんね。
 近しい親戚相手だと言っても、やっぱりお酌女を強要されるのは、抵抗があります。
 祖母は機織りが得意だったので、それは見事な単衣が残っていました。織った布で仕立てた着物です。
 晴れ着も自分たちでお蚕様を育て、糸を紡ぎ、染め、仕立てたと聞いています。
 私は、馬にも乗れませんし、機織りもできません。
 大正生まれの祖母の生活を想像することもできません。
 ただ、祖母は当然のように私が家に残ることを期待していました。大山を継ぐ、総領娘。それと同時に、祖母の中には土地を離れるということへの、逃れられない欲求があったようにも感じています。
 生前、時折「オレはこのムラから、外に出たことがねえ」と、私に言ったものです。物理的には、もちろん外には出ました。家族旅行に県外に行ったこともありますから。
 でも、祖母は大山の家に雁字搦めになって、閉じ込められていたんだと思います。
 祖母はまもなく百歳という冬を超えられませんでした。
 そして、その後、私は……
(Cl.が動揺したため、面談中断)

(十五分の休憩ののち、再開)
 私たち姉弟は、父の意向で、比較的のびのびと過ごしました。私が大学に行きたいと話した時も、両親は反対しませんでした。親戚には「女が賢くなってどうするんだ」というようなことをいう人もありましたが、父には表立って言わなかったんじゃないですかね。
 父自身は高校をとても優秀な成績で卒業したんです。家にはたくさんの賞状が飾ってありました。地方とはいえ外資系企業に勤めていたので、私たちの学費もしっかりと用意してくれました。
 なので、私が県外に進学するのも止めませんでした。もっとも、私が十七歳の時に倒れたことも影響したのかもしれません。家を出して、自由にさせると決めたそうです。その時についた診断は『適応障害』でした。外出を怖がるようになり、食事もとらなくなりました。本当にひどかった半年の間のことを私は覚えていません。ただ、死にたくなると、買い溜めていた大学ノートを引きちぎって、部屋中にばらまいていました。朝になると、なくなっていたので、母が片付けてくれていたのだと思います。一度、真冬に外で倒れて、雪に埋もれたこともありました、校門の近くだったので、先生たちが助けてくれましたけど、あのまま誰も見つけてくれなかったのなら、凍死したかもしれないな、と時々思い出します。
 そんな状態でも、なんとか高校は卒業しました。両親と学校が私を卒業させるためにかなり手を尽くして、寄りそってくれました。
 そんな高校生活でしたから、一年前には毎日点滴をしていたような娘をよく送り出してくれたと思います。
 父は、とてもいい人でした。私をよく守ってくれていたし、弟も私も「若い内には一人暮らしをしなさい」と言っていた。本人も本当は大学に進学し、体育教師になりたかったんだとよく話していました。農家の長男なので叶いませんでしたが。
 だからこそ、私たちの進路を一度も否定しませんでしたし、私が進学先の大学から職員にならないかと声をかけられたときにも反対しませんでした。
 そんな父が倒れたのは、真夏の日でした。……すみません、ちょっとええと……(Cl.が動揺し、一時中断)
 すみません、父の葬儀の時は、まだ祖母も健在でした。祖母と母が家を切り盛りし、その時高校生で県外の寮に入っていた弟と、県外の大学に就職していた私は葬儀や法事の時だけ、帰省するだけでした。
 ふたりとも亡き父の気持ちを大事にしていたんだと思います。本当は恐らく親類から「呼び戻せ」という声は上がっていたけれど、黙殺していたんだと。
 均衡が崩れたのは、祖母の葬儀のあとでした。老衰で、とても元気で、百歳を目前にした祖母の死は仕方がないといえば、仕方がなかった。
 悲しかったですが、私たちは祖母を送りました。好きだったバナナを持たせたり、好きな色の着物を入れたり、最期の別れに手紙を持たせたり。
 ――そのあと、座敷でチミチの親戚があつまり、『話し合い』がはじまりました。
 よく覚えていません。
 気が付いたら、私は泣きながら謝っていました。
「家を継げなくてごめんなさい、土地を離れてごめんなさい」
 土下座をして、体を小さく小さくしていました。
 土下座と三つ指の違いはなんでしょうね。実際に違うということは理解していますけど、あの日、私がしたことは、間違いなく土下座でした。詰め寄り、「無責任だ」「大山の家をどうする気だ」というチミチの親族に頭を下げることしかできませんでした。震える声は叫びになってたかもしれませんし、だれにも聞こえないくらいかすれていたのかもしれません。
 思えば、私はずっと土下座してきた気がします。
 来客があると、女は下座に並んで、三つ指ついてお出迎えしました。あのしぐさは、いまでも体に染みついています。私の、意思とは別に。
 私は泣きながら、家に残ると言いました。
 そうして、叔母たちに連れられて、座敷牢に入ったんです。太い木の格子で、深い闇がおりていて。
 チミチ、ですか? ああ、そういう言葉はないんですね。マケは一族や一門のことをいうんですが、チミチはもっと狭い親戚です。血が繋がっている中でも、更に近い人びと。血の道とかいて血道です。
 よく考えたら、誰かに聞いたわけではないかもしれません。チミチと家族が話すのを聞いて、『血の道』を連想したんです。
 私まで綿々と続く、長い長い血の道。私が逃れられなかった血でできた道。
 あの狭い世界では、その道こそが正しく誇りで、正しく歩むべき道でした。』


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