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血道 大山美国の話

大山美国の話

 何を間違ったのだろうか。
 私は、壁を眺めながら、ぼうっと考えていた。何を間違ったのだろう。私は、何か過分なことを望んだだろうか。
 六畳ほどの座敷牢には、板の間を改築した汲み取り式の和式トイレがある。廊下に面した格子は片腕を出すことはできても、顔を出すことはできない。
 細い細い格子。
 こんなものが、どうして家のなかにあるのか、ずっと不思議だった。
 ──あねさま
 白内障が進み、白く濁った目で私を見つめる老婆は、食事を差し出しに来る私を祖母と勘違いしていた。
 この人は祖母の妹、あきらかに精神を病んでいたが、はじめからそうなのか、ここにいてそうなったのかは分からない。
 私も、ここのこのままいたのなら、あの人のようになるかもしれない。
 ──あねさま
 幼い私のふくふくとした手に絡みついた、骨のような手が忘れられない。
 光里は見てはいけなかった。私だけが見てよかった。
 この座敷牢は、女のものだ。
 この家のなかにある、明確な区切りのひとつ。
 私は男になりたかった。男と同じように権利を持ち、自分の人生を切り開きたかった。
 両親はそれを許した。
 なのに、どうして私は座敷牢にいるのだろう。
 ──あねさま
 私は、この家に生まれて、この家からどこにもゆけないのだろうか。
 北向きで、窓もなく、いつもどこか底冷えする座敷牢。
 ただただ時を数えるくらいにしか、することのない場所。
 ──あねさま
 私をそう呼んだあの老婆は、孤独を食んで死んだのだろうか。
 私もいずれ、孤独に狂い、食事を運ぶ母を何かに見間違えるのだろうか。
 ここは、静かだ。
 何もない。
 私が家を継ぐと大人しく決めていれば、こんな座敷牢には入らずにすんだのだろうか。
 この牢には、人の絶望が巣食っている。

 光里。
 お姉ちゃんはね、別に聖人君子でも、善人でもない。優等生でもないし、いやな奴だよ。
 でもね、あんたまで、こんな風習に塗れた、いつか風化しそうな世界に生きなくていいの。
 お姉ちゃんはね、あんたのことが──

 ずっと長い夢を見ているみたいだった。私を姉と信じて語り掛ける女たちの声に囲まれて、「死にたい」という誰かの声が聞こえて。
 音がする。女たちの囁きと笑い声の間に、木の音が。
 あの音を……知っている気がする。
 ──あねさま
 ──たすけて
 ──おめえだけ、たすかるきが
 どこにもゆけない女たちの怨念が、私を取り囲む。
 自由になりたかった。
 自由に。
 私は自由になりたかった。遠くへ行って、夢を見た自分を赦して、その両腕に風を感じたかった。
 自由を。
 自由を、得るのだ。
 これからでも遅くないはずだ。
 光里。
 お姉ちゃんは、善人でもなければ、立派な人でもない。
 ただの、無力な夢見る女だったんだよ。


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