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大谷翔平「ええか? ゴミは拾うんやで」

いまをときめく大谷翔平選手。

彼がグラウンド内で「ゴミを拾うようにしている」というのはとても有名な話である。

彼曰く「他人が落とした運を拾っている感覚」であるらしい。子どものころ、誰もが大人から教えてもらう。落ちてるゴミは拾うように、と。

大谷選手は「野球選手である前に人としてどうあるべきか」みたいなところに重きを置いていて、それは大人になっても変わらず、かつメジャーリーグに行っても変わらず。

誰もが落ちているゴミに気づく。

見て見ぬふりをするのか、「あ」と気づいてそれを拾うのか。彼の場合はゴミを「運」だと思うことでそれを継続している。

彼は落ちているゴミを見て一旦通り過ぎると、後ろから肩を叩かれている気持ちになるらしい。「そこに運が落ちてますよ、どうする?」と思うのだそうだ。意識の違いであろう。


思うに、仕事の世界でもこれは一緒であるように思う。ゴミを拾うという行為を抽象化すると、「誰もが見逃すであろう機会を自分のチャンスと捉えられるか否か」みたいなものだろう。

たとえば不動産売買の営業マンは、車で道を走りながら「あの土地は売りに出ていないか」などと目を光らせながら車を走らせる。気づくとだいぶと遠回りをしていることが多いらしい。

誰もが見逃すであろう機会を自分のチャンスにできるかどうか。

大谷選手は、一見するとつながらない「ゴミ」というものに焦点をあてることで、日常の些細な機微を「気付き」に変え自分のものにしている、ということだ。


そういうことを考えながら、私は今朝、自宅でうんこをぶりぶりとしていた。

ぶりぶり。



朝、家を出たあとの通勤途中のこと。


いつものように準備をして家を出た。愛車のチャリにまたがって、札幌市内をキコキコと爆走する。

家から出てすぐの道をチリンチリンとチャリで走っていると、道路前方に見慣れない黒い物体が落ちていた。

サイズとしてはクツにしては大きく、カバンにしては小さい。

あれはなんだろう? と思いながらチャリを進める。

道端に落ちている黒い物体に限界まで近づいたとき、私は我が目を疑った。


カラスの死骸が落ちているのである。


カラスの死骸はカラスのヒナと同じくらい見たことがない。しかもカラスは全身真っ黒だ。不吉の象徴である。そのカラスが、めったに見ない黒々としたカラスの死骸が道路の脇にクテンと転がっている。妙に肉肉しいのがリアルさを掻き立てる。

カラスの死骸を見た瞬間、五条悟の領域展開「無量空処」をくらったような気持ちになった。脳内に情報が錯綜するのである。

「情報が完結しない!」


......キーーーーーーーーーーーーーーーン!!!


カ、カラス!? めったに見ない「死骸」だ! 妙に大きい! そうかカラスは近くで見るとでかいんだな。ボテっとして転がっている。車に轢かれたんだろうか? なんてかわいそうなんだ! え? 朝からカラスの死骸を見てしまったぞ? 今日1日は不吉なことでも起きるのだろうか? ここは? 道路だ。交通量は? それほど多いわけじゃない。いろんな人がこのカラスをスルーしたんだろうか? え、ちょっと待って? さっきうんこぶりぶりしながら、大谷くんのゴミ拾いのこと考えたよね? 道に落ちてるゴミを拾うかどうかで運の良し悪しが決まる? 気づくかどうか、それを行動に移すかどうかで何かが変わる? 大谷の場合はゴミを拾うと「他人が落とした運を拾っている感覚になる」らしい。じゃあこのカラスは? 誰かが落としたものか? 否。このカラスは誰のものでもない。誰にも所有されていない。じゃあ誰が落とした? 

「天」かっ!?

天が、いや、神的な誰かが、私の前にカラスという名の運を落とした? 天が俺に味方している!? 天が俺を祝福しているのか!? どうする? どうする? どうする? 拾う? 道の街路樹の土に埋葬してあげる!? 朝の貴重な時間を使って? 

どうする!? 

おれ! 

どうするのーーーーーーーーーーー!?


......

...


シャーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(チリンチリン)。



さすがに拾えなかった。



<あとがき>
さすがにカラスはムリでした。小さなころ、道端に落ちているスズメの死骸を拾って街路樹の土に埋葬したことがありました。少年というのは健気なもので、そこからしばらくはその場所を通るたびに手を合わせたものです。さすがに大人になると、カラスが持っているであろう未知のウイルスだとか、そういう衛生的なものが気になって、行動に移せませんでした。あのカラス、どうなったかなぁ。今日も最後までありがとうございました。

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