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「加速」する西洋音楽? 音価が変える音楽の世界

このエッセイは、2021年7月31日から8月28日にかけて行われたローム ミュージック ファンデーション、スカラシップ コンサート Vol. 23〜32のプログラム冊子に掲載されたものを、ローム ミュージック ファンデーション様の許可をいただいて掲載しております。掲載を許可してくださったローム様にこの場をお借りして感謝申し上げます。


はじめに

 西洋音楽の歴史は、その音楽を記録するメディアとしての楽譜という存在と不可分です。勿論、楽譜はひとたび奏者によって演奏されると音となって消えていく音楽を完全に記録したものでもありません。それでも、楽譜という媒体なしには、過去の多くの音楽を演奏することは不可能です。

 楽譜は、音の高さを表すための線と、音の長さを表す様々な音符により、その多元的な世界を二次元の紙の上に書き表します。このうち、音の長さは「音価」と呼ばれています。ヨーロッパ最初期の楽譜は、相対的な音高や節回しのニュアンスを示すことから発展をはじめ、11世紀頃には線を用いたより厳密な音高が、13世紀になると複数の形の音符を用いた音価が指定されるようになります。
 西洋音楽史を俯瞰すると、この音価に関して興味深い事実が浮かび上がります。それは、歴史を通して、使用音価が次第に細かなレベルに移行していったという事実です。時代が下るにつれ、より小さな音価が記譜の世界に導入されるようになり、作曲の基準音価もより小さな時価に移行していきます。その流れの中で、今から500年前、16世紀に登場した音価が私の研究の主人公であるビスクローマ(32分音符)です。

図1:西洋音楽における音価の変遷

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ビスクローマ(32分音符)の導入と音楽様式の転換

 16世紀には「ディミニューション」と呼ばれる即興技法が花開きます。これは、旋律をより小さな音価で装飾する技法で、16〜17世紀にかけて多くの手引書が出版されました。私は、この手引書の研究を進める中で音価の移行がこれら資料にも見られることに気付きました。既存の旋律に対しより小さな音価を用いることで速弾きの名技性を披露するディミニューションにおいて、その技巧の発展の中でより小さな音価を用いていったことは不思議ではありません。結果、16世紀中頃まではセミクローマ(16分音符)が最小音価だった手引書に、さらに小さな音価、全音符を32個に分割するビスクローマが導入されます。その契機となった手引書が、ヴェネツィア、聖マルコ大聖堂の器楽合奏隊長であったジローラモ・ダッラ・カーザ(?-1601)の『ディミニューションの真の方法』(1584年)です[注1]。彼は序文の中で、先人たちが32分音符を即興で用いていたにもかかわらず手引書で紹介しなかったこと、しかし32分音符を含めた様々な音価を組み合わせることこそ「ディミニューションの真の方法」であると主張し、下記楽譜のような非常に技巧的な装飾を残しました[注2]。

図2:ダッラ・カーザ『ディミニューションの真の方法』より《小夜啼鳥》

図2

ダッラ・カーザ以後、多くの音楽家が彼に追随し、手引書でビスクローマが用いられることがスタンダートとなりました。ヴェネツィアの出版業者ジャコモ・ヴィンチェンティ(?-1619)は、三本の符尾をもつ音符をビスクローマとして用い、ディミニューション手引書だけでなく、鍵盤楽器のための曲集やモノディーと呼ばれる独唱声楽曲集にも積極的に用い、ビスクローマ普及の立役者となりました[注3]。17世紀に入ると、ビスクローマは音楽の基礎をまとめた音楽理論書にも表記されるようになります。このことは、ビスクローマが即興演奏だけでなく、作曲・記譜される主要音価に組み込まれるようになったことを意味します。

図3:ディルータ『トランシルヴァニア人』(出版:ジャコモ・ヴィンチェンティ)より、音価の表(一番右がビスクローマ)。

図3

 では、ビスクローマの導入は当時の音楽の何を変えたのでしょうか? その代表的なものが、当時発展した器楽曲です。ダッラ・カーザは、ビスクローマを器楽奏者が特権的に用いることのできる音価と考えていたようで、ビスクローマを器楽のためのディミニューションにのみ用い、声楽ディミニューションには用いませんでした。小さな音符で旋律を埋め尽くすことで歌詞が不明瞭になる心配のない器楽曲において、ビスクローマは声楽との差異化を図る要素の一つとして用いられます。これは非常に興味深い点です。なぜなら、17世紀までの音楽において器楽は声楽に従属するものという美学が存在していたからです。今でも「この楽器は人の声に最も近いと言われている」という文言を見かけることは多いですが、この根本には西洋音楽史における圧倒的な声楽の優位性があるのです。1600年以後、楽器の発達やソナタなどいわゆる純粋器楽曲の興隆により声楽からの自立を果たす器楽ですが、そのストラテジーとして当時の様々な資料(演奏手引書、音楽理論書、楽曲)に「器楽にのみ用いられるビスクローマ」が現れることは特筆すべきでしょう[注4]。ダッラ・カーザ以後、R. ロニョーニ(1592)、ノターリ(1613)、F. ロニョーニ(1620)、カステッロ(1621, 29)、マリーニ(1626)、セルマ(1638)など、多くの音楽家がビスクローマを用いた器楽曲集を出版しました[注5]。今回はビスクローマ導入期のさわりの部分しかご紹介できませんが、新しい音価の導入が作曲様式、理論や演奏実践など音楽の様々な側面に影響を与える様は、記譜のシステムが高度に体系化されてきた西洋音楽ならではの現象であると言えるでしょう。

 1600年ごろは、ルネサンスからバロックへの音楽様式の転換期とされています。精緻に編み込まれた織物のような多声音楽の黄金期であるルネサンスの音楽において、ビスクローマは演奏の段階で音楽を彩るスパイスのような役割を担い、楽譜に書かれることは原則的にありませんでした。しかし、モノディや器楽曲など新しい様式が台頭したバロックの音楽において、ビスクローマはスパイスから調理される素材そのものへ、作曲の段階で用いられ楽譜に記譜されるものへと変化します。西洋音楽史における音価の移行は、音楽様式の変遷と結び付いて起こってきたものですが、ビスクローマは特にルネサンスからバロックという大きな、そして現在もその時代区分の妥当性を巡り様々な議論が行われている時代に導入された点において重要です。
 最後に、より根本的な問いかけで本文を締めくくりたいと思います。記譜される音価がより小さなレベルに推移することで、音楽は、演奏は「加速」してきたのでしょうか? 残念ながら、メトロノームなど客観的に速度を示す機器が開発される以前の演奏速度に関しては曖昧な情報しか残されていません。しかし、インターネットの通信速度とスマートフォンなどのデバイスが発展した2000年代、10年代の文化が大きく変化したように、新しい音価を楽譜に導入することで当時の音に対する感性が大きく変化したとしたら——私の研究は、ディミニューションにより記譜の領域に導入されたビスクローマが、1600年頃における音楽様式の転換に与えた影響を楽曲・理論書・演奏手引書など様々な角度から検証することです。西洋音楽における音価の問題は、速度や加速といった人間のより根本的な営みに関わるキーワードと直結しているのです。


1) Girolamo dalla Casa, Il vero modo di diminuir (Venice: Angelo Gardano, 1584).
2) 彼は32分音符をクァドゥルプリカーテ Quadruplicateと呼び、三本の符尾を持つ現代の32分音符とは異なるアラビア数字の4のような形で表しました。『ディミニューションの真の方法』は、クローマ(8分音符)を用いたディミニューションから始まり、セミクローマ、クァドゥルプリカーテと次第に細かな音価を用い難易度を上げていくエチュードのような構成をとっていますが、こうしたことからも彼の教育的姿勢が伺えます。
3) 彼が出版したビスクローマを含む手引書・曲集は以下の通りです:Giacomo Vincenti pub., Intermedii et concerti (1591), Richardo Rognoni, Passaggi per potersi essercitare nel diminuire (1592), Girolamo Diruta, Il Transilvano (1593/1609), Giovanni Battista Bovicelli, Regole, passage di musica (1594).
4) ドイツの音楽理論家・作曲家ゲオルグ・クイトシュライバーは著書『若人のための音楽書』(1607)において、「腕の良い器楽奏者は32分音符を(全音符を基準とする)拍の中で演奏することができる」と述べています。また、ダニエル・フリデリーチは著書『多声音楽、または歌唱技法の新しい教授』(1618)において、「器楽により演奏される楽譜には3本や4本の符尾をもつ音符が見られるが、人が歌う印刷された歌曲の楽譜にはない。なぜなら、あまりにも速くて歌えないからである」と述べています。
5) Angelo Notari, Prime musiche nuove (London, 1613), Francesco Rognoni Taeggio, Selva di varii passaggi (Milan, 1620), Dario Castello, Sonate concertate in stil moderno, libro primo & libro secondo (Venice, 1621/1629), Biagio Marini, Sonate, symphonie, canzoni, passe'mezzi, baletti, corenti, gagliarde e retornelli, Op.8 (Venice, 1626), Bartolomé de Selma y Salaverde, Canzoni fantasie et correnti da suonar ad una 2. 3: 4. con basso continuo (Venice, 1638).

参考文献:
Colussi, Franco, David Bryant, and Elena Quaranta. Girolamo Dalla Casa detto’da Udene’ e l’ambiente musicale veneziano. Friuli musica antica, 2. Clauzetto: Società Filologica Friulana, 2000.
Kubitschek, Ernst. “Studien Zur Verzierungspraxis Dargestellt an Den Drucken von Girolamo Dalla Casa Und Giovanni Bassano,” PhD diss., University of Vienna, 1976.
Paulsmeier, Karin. Notationskunde 17. und 18. Jahrhundert. Scripta/Schola Cantorum Basiliensis, 2, Basel: Schwabe Basel. 2012.
––––––––. Notationtskunde 15. und 16. Jahrhundert. Scripta/Schola Cantorum Basiliensis, 4. Basel: Schwabe, 2017.
菅沼起一「1600年頃におけるビスクローマ(32分音符)の普及——ジローラモ・ダッラ・カーザと以後の著述家の比較を通して——」、『音楽文化学論集』 第11号、2021年、25〜35頁。
————.「『解釈の鏡』としてのポリフォニー編曲作品——フランチェスコ・ロニョーニ・テッジォのディミニューション分析」、『音楽を通して世界を考える——東京藝術大学音楽学部楽理科土田英三郎ゼミ有志論集』 東京:東京藝術大学出版会、2020年3月、484〜499頁。


追記:ローム ミュージック ファンデーションでは、現在来年度(22年度)の奨学金・助成金の公募を行っております。奨学援助は9月30日(木)17時、音楽活動・研究への助成は10月14日(木)17時までとなっています。音楽に携わる多くの人がこれまで援助を受け、素晴らしいキャリアアップを実現している素晴らしい制度です。詳細は以下のURLより確認できます。これから留学する学生など、ぜひチャレンジしてください。

https://micro.rohm.com/jp/rmf/recruitment/subsidy/index.html



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