日記 10月30日

例えば全部気温が低いせいであって、バイオリズムの乱れであって、食べ物のせいであって、本当は良くなる方法などいくらでもあるのかもしれないのであって。そんな風に考えた時、余計に虚しい気がするのは、あんまり良くないことだと思います。講じるべき具体的な手段、栄養バランスの見直し、適度な運動、適度な睡眠。そういうことの一つ一つ。
人体が単にちょっとばかしよく出来ただけのメカに過ぎず、ぐずる時はぐずるという事実が恨めしい。自分が嫌な気持ちになっているのは、世界の真実とか、そういう大仰な理由でなく、本当にそういうメカのぐずりに過ぎず、僕が、或いは社会がちゃんとしさえすればどうにかなってしまう嫌な気持ちだったらどうする?それはいいことかもしれない。ここで変に気持ちにブレーキをかけているのは僕の信仰に反するから。ただそれだけでしかない。どれだけ世界が人体というメカにとって都合の良い場所になっても、普遍的な鬱屈が必ずあるという信仰。キラキラしてるそれをずっと見つめていられたらいいなという信仰。でも、それがメカの改善でどうにかなってしまって、どんどんどうでもいいものになってしまって、それは良いことなんだけれど、僕がそれを良いことと言うには、僕はあまりに普遍的(とされている)鬱屈をあいしすぎている。
それはそれとして、メカの改善は試みるべきだ。僕には諸々の問題に対して詩的な理屈でどうにかしようとするきらいがある。心と体は一つだ。悲しいくらいに。もし、心というものがあるなら、自分は形を持たない何かに片足突っ込んでいるみたいで、いいなと思う。自分や他者の体に関する色々を、もう悩まなくていいから。でもそうじゃない。思想には肉体が染み出して、厭な感じがする。必ず肉体ありき、形ありきだ。それが厭だ。覆面を被ったり、ヴァーチャルな存在になることで、肉体から思想を切り離そうという試みもあるけれど、脳が形を持って駆動している以上、僕たちは形ある思想家以外にはなりようがない。
文脈に宿る生命になりたい。ただ文脈に宿る幽霊。もうお腹すいたとか、クソしたいとか、暑いとか寒いとか、多分思わない。思ったとして、それは肉体的なそれとは決定的に違う何かだと思う。それに期待している。
文脈に宿る生命なら、多分、場所とらないし。
リスカしたり、進んで殴られたりする人って、やっぱりこういう肉体に対する厭悪があるのかしら。僕はそんなことしてもどうにもならないと諦めているから、あんまりそういう気になれない。痛いだけだと思ってしまう。

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