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気が利く人、気が利かない人

よく言われることで

「気が利く人」が周りにたくさんいる。

周りを見渡して

相手の気持ちを理解しながら

どう動けば一番良いか

を考えることができる人 のことだ。

残念ながら私は、

「気が利く人」の方ではない、と思っている。

こうしたらいいという考えは

わかっているのだが、

気付かないことが多分にある。

例えば、電車に乗っていると、

「気が利く人」の場合は

すぐに隣に入ってきたお婆さんに

自然な振る舞いで

席を譲ることができるわけだが、

気が利かない私の場合は、

お婆さんが隣に入ってきたことさえ

気付かない。

気付いたら、どうにか

気が利く人になれる可能性があるのに、

それに気付かない私がいるわけで、

いつも気が利く人の行動をみて、

ハッと気付かされるのだ。

だから、

そんな自分のことを

なにかと鈍臭いと感じていて、

いつか「気が利く人」になりたいな

と思っているのだ。

しかし考えてみたら、

実際のところ気が利かない私は、

いつまでたっても 

「気が利く人」になれないのではないか

と思う。

つまり、

そのことに気付かなければ

「気が利く人」にはなれず、

気が利く人は

そのことにすぐに気付くから

「気が利く」ことができるのであるから。

私はいつまでたっても

気付かない人であって、

そのことに気付かないから

気が利かないわけで、

気が利かないことを治すために

気付かないことを改善しようとしても、

そもそも気付かないから

その改善方法がないのである。

しまいには、

自分が気が利かない人だ

ということさえ気付かないし、

気付けないのではないか

と思うのである。

そんなことをひたすら考えていると、

頭がこんがらがってしまったのだが、

そもそも、

「気が利く」

って一体なんだ?

という疑問にたどり着いてしまい、

さらに事態は悪化してしまうのであるから

どうにもならない。

つまるところ、

気が利かない人の方が

ある意味

気楽なのではないかと

また、気が利く人の方が

ある意味

気掛かりになるのではないかと

今更ながら、気付くことができたのだった。

気が利くことの不自由さも、

気が利かないことの自由さも、

どちらも、それほど大して

変わらないのではないかと

思うのであった。

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作品:「記憶のかけら」アルミ箔,アクリル絵具/板
きはらごう

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