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置き去りにした何か

私はよく珈琲を飲む。

豆や水や淹れ方にこだわりはなく、

インスタントでも満足する方であるが、

珈琲の香りと口に含んだ苦味が

なんとも言えない心地良さを感じさせて

気持ちを落ち着かせてくれる。

いつから好きになったと言うと

はっきりは分からないが、

大学生の頃から頻繁に飲み始めたと思う。

しかし、

思い起こしてみたら

子どもの頃は

珈琲が苦すぎて飲めなかった。

こんな苦味がある飲み物を

どうして大人は飲めるのかと、

子どもだった私は

大人を疑ったことがある。

すると、

子どもの私を嗜めるように、

「大人になったらこの味わいが分かる時がくるよ」

と言われたのを思い出した。

珈琲が飲めるようになったら、

立派な大人になった証拠である

と言っているようだった。

つまり、大人になるということは

様々なことを積み重ねながら成長していき、

だんだんと経験が詰まっていくうちに

あの苦味が

分かってくるものだということだ。

逆に、もし経験が詰まっていかずに

大人になってしまったとしたら、

あの苦味が

大人になっても、

ずっと分からないのではないか

とも思っていたのだ。

しかし、その心配は必要なく、

大人になった私は

香りを楽しむことができるくらい珈琲が飲めるようになったのだ。

年齢的にも大人になったのもあるが、

今まで生きてきて

様々な経験を積み重ねてきたから、

珈琲のその美味しさを感じることが

できるのではないかと、

大人の余裕を感じさせつつ、

子どもの頃の思い出に浸り、

珈琲をゆっくり淹れながら

そんなことを考えていた。

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しかし、先日、ある記事を読んだ時、

その内容を理解すると、

私は、愕然としたのだった。

事実は全然違った

と言ってもおかしくない程に

私は思い違いしていたようだ。

味覚についての内容の記事であったのだが……。

舌には「味蕾(みらい)」と呼ばれる

苦味を感じる器官がある。

子どもの舌は、

それが大人の3倍はあるというので、

少し苦いものを口に入れると

とにかく敏感に

苦味を感じてしまうようである。

つまり、

子どもの方が大人より

味覚が3倍も敏感だ

ということであるという事実だ。

大人になるにつれて

徐々にその器官は減っていくようで、

感覚としては

苦味に対して

鈍感になっていくというのである。

珈琲は砂糖を入れない限り甘味はなく

苦味しかないので、

子どもの頃の私は

当然飲めるものじゃなかった

というのも納得であって、

当たり前のことだったのだ。

ということは、

珈琲を飲めるようになっている私は、

舌にある感覚器官の「味蕾」が

徐々に少なくなってきていて、

程よく鈍感になっているだけなわけで、

つまり、

味蕾が衰えてきて

ただ老化しただけ、

だったのだ。

いや、考えてみれば、

大人が、子どもより細かな味を見分けられるようになる

とも考えにくいし、

様々な食べ物の経験から

味を見分けられるようになったとしても、

人生の様々な経験が

舌で感じる感覚器官と

直接関係しているわけではあるまい。

子どもの頃から

少しずつ経験を積み重ねていけばいくほど

いろんなことに慣れてしまうし、

驚くことも少なくなる。

大人になれば

様々なことに着実に鈍感になっていくわけで、

それを老化と言っても仕方ないのだ。

珈琲を飲める大人になったからといって、

それを成長と捉えてしまうのは、

(言い過ぎかもしれないが)ただの奢りであるのかと思うわけだ。

大人になるまで

たくさんの経験を引き換えにして、

子どもの時にもっていた

何か大切なものを

少しずつ置き去りにして

忘れていってしまっているのかもしれない。

大人になって分かることは多くあるが、

子どもにだけ分かることは、

時が経つに従い

いつのまにか忘れてしまっている。

いつかの子どもだった大人の私は、

珈琲を苦味で飲めないという感覚を

必死になって取り戻そうとしたとしても、

もう二度と取り戻すことができないのだ。

そう思うと、

子どもの時にあった

感覚的な何か大切なものを、

そこに置き去りにしまったように

感じてしまうのである。

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作品:「カップとスプーン」
金箔・インク・テンペラ/板
きはらごう

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