鍵屋の辻

画像1 「鍵屋の辻の決闘」みなさん、どこかで聞いたことや見たことがあるのではないでしょうか?そうです、日本三大仇討ちの一つのそれです。写真は鍵屋の辻史跡公園内にある資料館ですが、今は故あって休館中となっています。
画像2 「伊賀越復讎(いがごえふくしゅう)の石碑」。寛永11年11月7日(旧暦1634年12月26日)、渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬の弟の仇である河合又五郎をこの地で討ちました。俗に又右衛門の36人斬りと言われていますが、実際は2人だけで、最後数馬と又五郎の一騎打ちとなり、5時間に及ぶ戦いの末数馬が又五郎の腕を切り、又右衛門がとどめを刺しました。
画像3 こちらは、数馬と又右衛門らが又五郎一行を待ち伏せした萬屋(よろずや)を再現した数馬茶屋。残念ながらこちらも休業中で、趣は感じられませんが、ひっそりと木立の中で佇む日本家屋に当時の思いを馳せていただければ幸いです。
画像4 鍵屋の辻は、伊賀市小田町にあり6方面からの路が集まる交通の要衝で、写真の道標は「ひだりなら・・」とあり、笠置街道を指しています。また、現在の伊賀鉄道の前身である伊賀軌道が開通した大正5年(1916年)、上野駅連絡所(現在の伊賀上野駅)から上野町に向けての2つ目「鍵屋辻」駅もあったのですが、昭和44年(1969年)廃止となりました。上野の市街地に入るには、ここから急な坂道となっており、伊賀上野城は上野台地の北側に位置します。
画像5 こちらは公園内にある池です。今回は鍵屋の辻についてご紹介しました。主役である荒木又右衛門(1599年〜1638年)は、伊賀服部鄕荒木村(現在の伊賀市荒木)で誕生、新陰流の剣豪としても知られています。又右衛門はこの仇討ち後、しばらく伊賀藤堂藩に匿われていた後、数馬とともに鳥取藩に迎え入れられますが、それから数年後謎の死を遂げます。毒殺された説、暗殺を恐れて死んだことにした説等々、今では想像を巡らすしかないですね。次回はこの公園内外にある神社を取り上げます。

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