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「気位の高いひと」が出て来ない作品――「終りなき夜に生まれつく」アガサ・クリスティ

アガサ・クリスティの長編小説「終りなき夜に生まれつく」は、彼女自身が選んだ自作トップ10に入る作品ですが、他の作品と違って、特に引っかかるところもなく、すらすらと読んでしまえる小説です。
そういう意味では、クリスティがメアリー・ウェストマコット名義で発表した、ミステリーではない、通常の心理小説の方に似ているように思います。
そもそもトリックらしいトリックがなく(ここで、「ない」と言い切ってしまうと、間違いになるのですが)、殺人方法にしても、「こんなやり方なの?」と言いたくなるような、あっけない手法です。

クリスティの作品の中では、探偵役の人物が出て来ない、ノンシリーズ物で、登場人物の一人による一人称で、物語は語られて行きます。
語り手は若い男性で、職を転々としている青年、最近までは運転手をしていました。
ふとしたことから、「ジプシーが丘」と呼ばれる土地に魅せられ、そこで偶然若い女性と出会い、二人は恋に落ちます。

一人称小説ですので、語り手の心理はダイレクトに読者に伝わります。
語り手の見た物、聞いた物と同じものを、読者は受け取り、推理することになる訳です。
語り手の心理も、彼自身の言葉で、克明に語られます。
彼の母親への微妙な心理は、彼女との会話からも覗えますし、「ジプシーが丘」とそこに建つ家への執着は、建築家サントニックスとの会話を通して、読者にも様々に伝わって来ます。

推理小説、ミステリーと言われる分野に含まれる作品である以上、核心を突く内容は書けないのですが、私がここで、この小説を取り上げた理由は、この作品が、クリスティの小説には珍しく、「気位の高いひと」が出て来ない作品だからです。
通常、クリスティの作品は、必ずと言って良いほど、「気位の高いひと」達が登場します。
王族や貴族など身分の高い人々、大富豪や相続人、地方の名士など裕福な人々、有名な作家や女優、政治家、実業家など、生活に苦労のない登場人物が多く、その分、私利私欲に走ることのないように自分を律し、社会への責任を感じている人々が登場する、という特徴があります。

ところが、この「終りなき夜に生まれつく」には、語り手をはじめとして、「気位の高いひと」が出て来ません。
例外は、村長で大地主のフィルポットくらいでしょう。
いずれの場合も、語り手のマイクの目を通しての人物像ですから、幾分歪曲されているでしょうが、それにしても、クリスティの描く、誇り高く生きる人々の姿が、この作品においては見られないのです。

なぜでしょうか。
ここまで書くだけでもギリギリだと思われますので、まだこの作品、「エンドレス・ナイト」を読んだことのない方は、ここから先は読まないで下さい。

クリスティは、犯罪者の心理を、余す所なく描いてみたかったのでしょうね。
犯罪が起こり、探偵役の人物が出てきて、トリックを見破り、犯人を指摘する、そういういわゆる探偵(推理)小説に、さほど魅力を見出せなくなっていたのかもしれません(例えばポアロのような、「探偵」という存在を、リアルに描くのが、年々難しくなっている、というような発言もありました)。

語り手が実は犯人だった、というトリックは、すでに「アクロイド殺し」で使っていますが、同じトリックだから、とクリスティが気にしている風はなく、先ほど出てきた自作トップ10には、「アクロイド殺し」も「終りなき夜に生まれつく」も両方とも入れています。
クリスティにとっては、この両作品は、たまたま語り口のトリックが同じになっただけで、内容はまったくの別物である、と思っていたのかもしれません。

さて、この「終りなき夜に生まれつく」には、原型となる短編小説があります。
「管理人の事件」(もしくは、「管理人の老婆」)で、メインのストーリーはほぼ同一です。
ところが、この短編は、ろくでなしの若い男が、金目当てで大金持ちの娘と結婚したあげく、妻を殺して、遺産をそっくり頂こうと考える――という陰惨なストーリー(現に「終りなき夜に生まれつく」は暗い話でした)なのに、妙に明るいのです。

これは、この短編の方が、入れ子構造になっていることによります。
医師のヘイドックは、インフルエンザの回復期にあるミス・マープルが、気弱になっているのを見て、何とか元気にさせようと一計を案じます。
かつて自分がかかわった殺人事件のあらましを、小説風に書き物にして渡し、犯人を当ててみよ、と彼女に言い置いて帰って行くのです。
翌日、ヘイドック医師が往診に行くと、ミス・マープルはすっかり元気になっていて、見事犯人を当ててみせました。

その事件の内容の方だけを、舞台と人物を変え、膨らませたのが、「終りなき夜に生まれつく」です。
言うまでも無く、ミス・マープルもヘイドック医師も、「気位の高いひと」達です。
ヘイドック医師は、自分の患者の病気を治すために、彼女に一番効き目のある方法を選びました。
患者を良く知り、理解すると共に、気鬱になった患者を治すために、努力を惜しまない――自分の職業に誇りを持っているひとの姿です。

気位の高いひと」の姿は、まわりを明るくします。
「終りなき夜に生まれつく」に、「気位の高いひと」が出て来ないのは、語り手の青年が犯人であったからでした。
「管理人の事件」には、「気位の高いひと」達である、医師と患者の心あたたまる交流が描かれているために、事件は陰惨でも、後味の良い、明るいところのある作品になっています。

まとめます。
アガサ・クリスティの大多数の作品には、「気位の高いひと」が登場します。
では、なぜ「終りなき夜に生まれつく」には、「気位の高いひと」が出て来ないのか。
それは、ファム・ファタール(運命の女)に振り回されたあげく、殺人を犯した犯人が、語り手だったからです(実は、以前にも人殺しをしていました)。
同内容の短編の方は、「気位の高いひと」が登場し、後味の良い作品になっています。

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