疒日記5


気力はあるが体力がない、もしくはその逆という日々が続き、前回の更新から時間が経った。しかもその間、「疒日記読んでるよ」などとほうぼうからメッセージが届き、感じる必要もない重圧を手前勝手に抱え込んでもいたのだった。これらはすべてどうでもいいことである。

11月初旬、やはりというか何というか、病気のことを知った僕は「先行事例」を求めていた。つまり、似たような境遇で亡くなっていった先人たちのことを知ろうとした。これは、演劇に関する僕の持論とも合致した行動だった。

ひとは、日常の延長では対処しれきれない想定外の事態に直面すると、行動の範をそれまで接してきた作品に求める。感動ドラマ熱血ドラマしか見てこなかった人間は、いざというとき、それ相応の言動をとってしまうに違いない。だからひとは、もっと小説や映画、演劇の良質なやつに触れて、物語について擦れっ枯らしになっておくべきだ。ひとよ、散文的たれ……!

しかし、手元にあるそれらしき書物の多くは、どうしてかドラマチックなのが多い。僕が知りたいのは、美しく完結した人生物語ではなく、情けなくヨロヨロと力尽きていく衰弱のシークエンスなのだが、どうもそういうのがすぐには見つからない。伝記でも自伝でも、エッセイでも、文章のかたちに起こそうとするとき既に物語化の力が働いてしまうのかもしれない。

最初に念頭にあったのは中上健次だった。四十代半ばで癌を患い、最後は故郷近くの那智勝浦の病院で亡くなった。ただ、病そのものについて書かれた彼の文章は知らない。完結せず途中で終わってしまった小説が幾つかあるが。彼の盟友であった批評家柄谷行人が、その頃のことについて少し書いていて、そういうのをパラパラと読んだ。「抗癌剤を使うようになったら、もう終わりです」と柄谷は発言している。僕は今日、初となる抗癌剤治療を受けた。確かに、終わりか終わりでないかでいったら、終りに近いのは事実だ。事実だから仕方ない。

ところで紀州新宮にある中上のお墓には、なんだかんだで、もう三回ほどお参りに行っている。体の調子がよくなったらまた行く。小栗判官よろしく湯の峰温泉にも浸かる。

次いで本棚から引っ張り出したのが『メモランダム』だった。ダムタイプのメンバーだった古橋悌二のことを記録した本だ。彼がHIVウイルスに感染していることを公表したのが1992年、亡くなったのはその3年後の1995年で、その頃ぼくは大学生だった。建築学科の助教授(後の教授)もダムタイプのファンで、よく薦められたものだが、初めて観たのはだいぶ後になってからで、古橋の遺作となった『S/N』は観られなかった。もっとも、当時の僕はギャグやコントのことばかり考えていたので、観る機会に恵まれてもそれほど興味を持つことはできなかったと思う。

中上健次のそばに柄谷行人がいたように、古橋悌二の隣には浅田彰がいた。この本にも浅田はたびたび登場する。そして古橋との思い出を語る浅田の文章はキラキラしている。溌剌としている。こんな言葉が合っているかどうかわからないが、青春、という感じがする。そんな浅田は文章の最後に、「さようなら古橋くん、見事な人生でした」と書いてしまうのだった。そこで僕は、ウッ、となる。見事な人生とはなんだろうか。人生を、何かの作品のように、見事か否かという基準で判断していいものなのだろうか。人生は作品なのか。

神話や、それを批判的に継承することで発展してきた文学――詩、戯曲、小説において人生が扱われるのはごく当たり前のことで、メインテーマといっても差し支えない。かつて語られたのは英雄の人生だった。次いで、何かの能力に長けた才人たち、更に時代が下ると対象はぐっと身近になり、最近の小説に登場するのは主婦だったりフリーターだったりする。要するに昔は成人男子で富と名誉のあるものしか政治に関われなかったのが、いまではみんなに選挙権があるようなものだ。

しかし人生を描いた作品はあっても人生そのものが作品なわけではない。選挙権はあるけど直接政治に参加できるわけではない(ドナルド・トランプのことが頭に浮かんだけど話がややこしくなるのでまた今度にする)。

そんな時代だからこそかもしれない。文学では既に陳腐なものとして看做されがちな「見事な人生」も、現実世界で起こってしまうと賞賛の的となる。アンチクライマックスに散々慣れてきた僕たちも、自分やその周囲に限っては美しく円環を閉じた人生に感嘆し、或いは臆面もなく奇跡(的回復)に期待する。このあたりのことも、もっと考えていったら面白いと思う。

で、最終的に僕がたどり着いたのがネット上に数多と存在する闘病ブログだった。ほんとうに数限りないので、自分と同じ肺腺癌、ステージでいうとⅢ〜Ⅳあたりのものに絞って読んでいった。それでも結構な量だが、時間はいくらでもあったのでひたすら読んだ。普段なら目もくれないようなジャンルだが、当事者性というのは強力なもんで、まあ、グイグイと読んだ。そしてブツッと切れる。そう、闘病ブログの多くは、短くて数ヶ月、長くて5年ほど続くが、最後は患者本人ではない人間からの報告によって唐突に終わる。はじめまして。◯◯の夫です。みなさんから応援いただいていた◯◯ですが、先日眠るように息を引き取り……

闘病ブログを作品という目線で読む人はいないと思う。そして書き手=患者さんたちの人生を作品のように見事か否かで判断する人もいないだろう。だからってブログや、そしてもちろん彼らの人生が無価値だなんてことがあるわけない。しかし、ここは言い方が難しい。僕は、みんなそれぞれ生きていてそれぞれの人生に乾杯、みたいなことが言いたいわけではない。

難しいのでまた今度にするか。ただ、ひとつだけ浮かんでいるイメージ、というか、言葉がある。「祈り」だ。

闘病ブログはもちろん作品ではないが、祈りではある。そして、世にある作品の多くも祈りである。悪魔のしるしの作品も。

祈りは個人的な行為なので、周囲から「あれはいい祈りだ」「今日の彼の祈りはいまいちだ」なんて言われたとしてもノーダメージだ。ただ、祈りという行為が、肉体をはじめとした物質によって具体的に実現したとき、その姿形や影だけ取り出すようにして評価というのは可能で、おそらく鑑賞とか批評というのはこのあたりの雲のようなふわっとした足場の上に立脚している。


今回の日記は、無理にまとめるためにだいぶ嘘をついた。そんな気がする。遠からず修正訂正するだろう。



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