大宝寺と岩屋寺と久万郷
久万郷は四国の山深い辺鄙な地にありながらも、意外に早くから中央とのつながりがあったことがうかがえます。それは大宝寺と岩屋の存在があったからに他なりません。
菅生山大宝寺縁起
大宝寺はその名が示すように大宝年間(大宝律令の大宝)、文武天皇(在位697〜707)の勅令により寺院を建立、元号にちなんで「大寶寺」と号し、創建されたと伝えられています。その縁起は「愛媛県生涯学習センター」のデーターベース『えひめの記憶』に詳しいのでそのまま引用させていただきます。
事の起こりとなったこの十一面観音像は、寺伝では大和朝廷の時代、百済から来朝した聖僧が、この山中に安置していったとあります。そこで、これをもとに想像たくましくしてみることとします。しばし戯れ言にお付き合い下さい。
十一面観音像物語
大宝寺創建の年から遡ること38年前の663年(天智2年)、朝鮮半島では白村江の戦いがあり、唐と新羅の連合軍に百済と大和の連合軍は破れ百済は滅亡しています。このとき日本はなんと2万7千人あまりの兵を送っています。
大量の百済の難民が大和軍の敗走船に同乗して、日本に渡来したことは想像に難くありません。(松山市東石井の東山古墳の近くには「百済」の姓をもつ人が現在も住まわれています。)その中にこの十一面観音を携えた僧侶がいたとしても不思議ではないでしょう。
百済の聖僧は伊予の熟田津(にぎたつ)の港で船を下り、久米の官衙(かんが)で岩屋の存在を聞く。あの南の山並みの向こうに、神仙が住まう岩屋というところがあると‥。
しばし道後の湯で戦禍の心労と長旅の疲れを癒やした後、聖僧は久万山の山中へと足を踏み入れるが、道に迷い菅生山で力尽きたか、はたまた獣に襲われたか、そこで命を落とす。数十年の風雪にたえ、十一面観音像だけがその地に残された。
明神兄弟より十一面観音像の出現の報告を受けた官衙では、その由来を含めて朝廷に報告し、天皇の勅令の運びとなったのである。
異界を思わせる奇岩が林立する岩屋は、霊地として古代から神仙の修行者に広く認知されていったようです。一遍聖絵にも「ここは観音が現れた霊地であり、仙人修行の古跡である。」と記されています。ゆえに一遍上人や空海も修行の場として訪れたのでしょう。
岩屋に加え天皇お墨付きの寺社が建てられたことで、菅生山大宝寺は霊場としての地位を確立していったのではないでしょうか。ちなみに四国八十八カ所巡礼が定着するまでは、岩屋寺は大宝寺の奥の院として一体のものと考えられていたようです。
後白河天皇と大宝寺
保元年間(一一五六~五八)後白河天皇が御脳の病になられた時、当山に勅使が参詣し当病平癒の祈願を込めた。祈願成就なって多額の浄財を寄進、それによって菅生に四八の僧堂坊舎が建立された。あわせて御皇妹の宮が住職としてこられた。現在、陵、勅使橋の遺跡がある。また御白河天皇御自筆の『菅生山』の勅額を賜ったと寺伝にはあります。
度重なる火災により、それらの僧堂坊舎は喪失し久万川渡河の川縁に総門を残すのみとなっていますが、当時の対岸からの眺めはさぞ荘厳なことであったろうと思うとまことに残念なことです。
これにより菅生山大宝寺の名は全国区となり、ちょうどこの頃始まった六十六部廻国聖(通称六部)の巡礼地に、菅生山大宝寺が選ばれています。
六十六部廻国聖とは日本全国66ヶ国を巡り、それぞれの国を代表する神社または寺院一カ所に法華経一部を奉納するという修行者です。
『日本廻国六十六部縁起』には参拝すべき寺社の一覧が掲載されていて、伊予では菅生山大宝寺の名が記されています。
三坂峠を1㎞ほど下った所に六部堂の地名がありますが、これは巡礼の途中、この地で病に倒れた六部に由来するとのことです。
余談になりますが、四国八十八カ所の寺院が定められたのは室町時代以降で、お遍路さんの納経帳の携行もこの六十六部廻国聖に習ったものだといわれています。
久万郷の起こり
久万郷の玄関口にあたる三坂峠の「三坂」は古くは「御坂」であって、菅生山へお詣りする坂道の意味だとも言われています。菅生山大宝寺があるために、お詣りする人々のため門前町ができたのが、久万郷の起こりであるということでしょう。
久万高原町の中心部、伊予鉄バス駅のとなりに「お久万大師堂」があります。その縁起にはこうあります。
いにしえからの霊地菅生山大宝寺と岩屋寺を擁する久万高原町も時勢には逆らえず、少子化・過疎化が加速しています。
今一度お大師様のご利益あずかりたいところです。
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