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大宝寺と岩屋寺と久万郷

久万郷は四国の山深い辺鄙な地にありながらも、意外に早くから中央とのつながりがあったことがうかがえます。それは大宝寺と岩屋の存在があったからに他なりません。

菅生山大宝寺縁起

大宝寺はその名が示すように大宝年間(大宝律令の大宝)、文武天皇(在位697〜707)の勅令により寺院を建立、元号にちなんで「大寶寺」と号し、創建されたと伝えられています。その縁起は「愛媛県生涯学習センター」のデーターベース『えひめの記憶』に詳しいのでそのまま引用させていただきます。

菅生山大宝寺


「一遍聖絵」は鎌倉時代の正安元年(一二九九)に一遍上人の弟予の聖戒が詞書を記し、円伊という絵師が絵をかいた絵巻物で京都の歓喜光寺に所蔵されているもので、その写真版は一遍の誕生した所といわれている道後の宝厳寺にもある。そのなかに上人が文永一〇年(一二七三)に予州浮穴郡菅生の岩屋という所に参籠したことが絵入りで記され、大宝寺と岩屋寺の縁起が述べられている。やや難解であるが、最も古いものであるから菅生寺に関する部分を記してみよう。

一遍上人聖絵(菅生の岩屋)

昔、仏法いまだひろまらざりしころ、安芸国の住人狩猟のためにこの山にきたりて、嶺にのぼりてかせぎをまつに、持たる弓を古木にあててはりてけり。そののち、この木よもすがら光をはなつ。ひるになりてこれを見るに、うへは古木なり、青苔ところどころにむして、そのかたちたしかならず。
中に金色なる物あり、すがた人ににたり。この猟師、仏菩薩の名躰いまだしらざりけるが、自然発得して観音なりといふ事をしりぬ。帰依の心たちまちおこりて、もつところの梓弓を棟梁とし、きるところの菅蓑をうはぶきとして草舎をつくりて、安置したてまつりぬ。
そののち、両三年をへだてて又この地にかへりきたりて、ありしところをもとむるに、草舎おちやぶれて跡形も見えず。峯にのぼり谷にくだりて、たづねあるきけるに、草ふかくしてあやしき処あり。たちよりてみれば、ありし蓑のすげおひしげりし中に、本尊赫突としておはします。いとうれしくおぼえて、かさねて精舎をかまへ、荘厳をいたして菅生寺と号し、帰依のこころざしをふかくす。われこの処の守護神となるべしとちいかて野々の明神といはれて、いま現在せり。とある。

「四国遍礼霊場記」には、猟師の発見したのは十一面観音であり、その時は文武天皇の大宝元年(七〇一)四月一八日のこととし、猟師は白目に天にのぼったので、これを高殿明神としてまつったとある。更に「伊予古蹟志」では猟師は一人でなく、明神左京と弟の隼人の二人となっており、安芸国でなく豊後国から移ったとし、四月八日のこととしている。また左京は西明神村の神殿明神として祭られ、隼人は露口村の耳戸明神として祭られたと書かれている。

明神右京が御祭神として祭られている高殿神社

(中略)
古代の大宝寺の事について、また久万町のことについて確実な史料のないのは残念である。ここには「愛媛面影」(慶応二年、半井梧菴著)にあるものを記しておく。
  菅生山は久万町の東に在り名所なり
   明玉集   藤原為頼(平安時代中期の貴族・歌人)
   筑紫へまかる頃伊予の海より雲かかる山を見て
   朝なぎにこぎ出で見れば伊予路なる菅生の山に雲のかかれる
大宝寺は菅生山に在り本尊十一面観世音、立像四尺三寸、百済国より渡り来る所の天竺仏なりと云、文武天皇大宝年中に建立せり、仍て大宝寺と号く、二王門の二金剛は運慶作、菅生山の額は後白河院の宸筆也、仁平二年焼失せしを保元二年再造せり、嵯峨大覚寺の宮住職せさせ給ひし時、勅命に依て大覚院と号すといへり、四国巡拝四拾四番の札所なり、此寺昔は天台宗なりしを、空海奥院を開基有し時、真言宗に改む、旧は四十八坊有しを今は大坊中坊東坊西坊定泉坊十輸坊東角坊新坊西林坊釜田坊理覚坊石垣坊の十二坊残れり、この十ニ坊も明治七年の火災で理覚坊のみ残り、本堂も現在のものは大正一一年の改築にかかるものである。

愛媛県生涯学習センターデーターベース『えひめの記憶』より

事の起こりとなったこの十一面観音像は、寺伝では大和朝廷の時代、百済から来朝した聖僧が、この山中に安置していったとあります。そこで、これをもとに想像たくましくしてみることとします。しばし戯れ言にお付き合い下さい。

十一面観音像物語

十一面観音像

大宝寺創建の年から遡ること38年前の663年(天智2年)、朝鮮半島では白村江の戦いがあり、唐と新羅の連合軍に百済と大和の連合軍は破れ百済は滅亡しています。このとき日本はなんと2万7千人あまりの兵を送っています。
大量の百済の難民が大和軍の敗走船に同乗して、日本に渡来したことは想像に難くありません。(松山市東石井の東山古墳の近くには「百済」の姓をもつ人が現在も住まわれています。)その中にこの十一面観音を携えた僧侶がいたとしても不思議ではないでしょう。

百済の聖僧は伊予の熟田津(にぎたつ)の港で船を下り、久米の官衙(かんが)で岩屋の存在を聞く。あの南の山並みの向こうに、神仙が住まう岩屋というところがあると‥。
しばし道後の湯で戦禍の心労と長旅の疲れを癒やした後、聖僧は久万山の山中へと足を踏み入れるが、道に迷い菅生山で力尽きたか、はたまた獣に襲われたか、そこで命を落とす。数十年の風雪にたえ、十一面観音像だけがその地に残された。
明神兄弟より十一面観音像の出現の報告を受けた官衙では、その由来を含めて朝廷に報告し、天皇の勅令の運びとなったのである。

久米官衙遺跡より久万郷の山並みを望む
久米官衙遺跡(松山市来住町)
7世紀前半から8世紀の官衙政庁施設などの遺構

異界を思わせる奇岩が林立する岩屋は、霊地として古代から神仙の修行者に広く認知されていったようです。一遍聖絵にも「ここは観音が現れた霊地であり、仙人修行の古跡である。」と記されています。ゆえに一遍上人や空海も修行の場として訪れたのでしょう。

岩屋に加え天皇お墨付きの寺社が建てられたことで、菅生山大宝寺は霊場としての地位を確立していったのではないでしょうか。ちなみに四国八十八カ所巡礼が定着するまでは、岩屋寺は大宝寺の奥の院として一体のものと考えられていたようです。

海岸山岩屋寺

後白河天皇と大宝寺

保元年間(一一五六~五八)後白河天皇が御脳の病になられた時、当山に勅使が参詣し当病平癒の祈願を込めた。祈願成就なって多額の浄財を寄進、それによって菅生に四八の僧堂坊舎が建立された。あわせて御皇妹の宮が住職としてこられた。現在、陵、勅使橋の遺跡がある。また御白河天皇御自筆の『菅生山』の勅額を賜ったと寺伝にはあります。

御皇妹の宮を祭った陵権現
勅使橋

度重なる火災により、それらの僧堂坊舎は喪失し久万川渡河の川縁に総門を残すのみとなっていますが、当時の対岸からの眺めはさぞ荘厳なことであったろうと思うとまことに残念なことです。

総門対岸より菅生山を望む

これにより菅生山大宝寺の名は全国区となり、ちょうどこの頃始まった六十六部廻国聖(通称六部)の巡礼地に、菅生山大宝寺が選ばれています。

六十六部廻国聖とは日本全国66ヶ国を巡り、それぞれの国を代表する神社または寺院一カ所に法華経一部を奉納するという修行者です。
『日本廻国六十六部縁起』には参拝すべき寺社の一覧が掲載されていて、伊予では菅生山大宝寺の名が記されています。
三坂峠を1㎞ほど下った所に六部堂の地名がありますが、これは巡礼の途中、この地で病に倒れた六部に由来するとのことです。

六部供養塔(東明神六部堂)

余談になりますが、四国八十八カ所の寺院が定められたのは室町時代以降で、お遍路さんの納経帳の携行もこの六十六部廻国聖に習ったものだといわれています。

久万郷の起こり

久万郷の玄関口にあたる三坂峠の「三坂」は古くは「御坂」であって、菅生山へお詣りする坂道の意味だとも言われています。菅生山大宝寺があるために、お詣りする人々のため門前町ができたのが、久万郷の起こりであるということでしょう。

久万高原町の中心部、伊予鉄バス駅のとなりに「お久万大師堂」があります。その縁起にはこうあります。

お久万大師堂

今を去る千百五十余年の昔、弘法大師様が四国ご巡錫の砌(みぎり)、今の大洲市十夜で宿なく橋の下に野宿され、翌朝空腹にて山坂を越えてこの地につかれた際、「お久万」という一媼がねんごろに接待申し上げましたところ、大師様は大変よろこばれ、
「おばあさん、有り難う。あなたの願いは何なりと叶えてあげましょう」「ではこの地に人の住みよい町をおつくり下さい」
功徳により人家が次第にふえ町ができました。
後人、お久万を徳としてその名を象り久万町と名づけ、没後堂廟を建立しお久万大師として尊崇してきました。

お久万大師堂由来より

いにしえからの霊地菅生山大宝寺と岩屋寺を擁する久万高原町も時勢には逆らえず、少子化・過疎化が加速しています。
今一度お大師様のご利益あずかりたいところです。



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