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三つの大野ヶ原の戦い

西予市の北東高知県との県境に、標高1000mを越える高原が広がる大野ヶ原というところがあります。
大野ヶ原はもともと浮島が原(うきしまがはら=小学校の近くにある小松が池に浮島があるのが由来)と呼ばれ、その後一朝が原(いちあさがはら=弘法大師にまつわる逸話に由来)と名を変えましたが、久万大除城主の大野直昌が長曾我部元親軍とこの地で戦ったことから、現在では「大野ヶ原」と呼ばれるようになったとのことです。
ここではその大野ヶ原の戦いを今に伝える、三つの伝承についてまとめてみました。

笹ヶ峠合戦

大野直之は久万大除城主大野直昌とは四歳の年少で隼人・上総介・右衛門太夫と称し、喜多郡菅田城主となり菅田直之(又は直行)とも呼ばれていた。地蔵嶽城主宇都宮豊綱の聟(むこ)となり、その死後地蔵嶽に住み、郡内の棟梁となったという。

天正元年(一五七三)のはじめ、直之が長宗我部元親の授けを得て河野氏に背いたので、河野通吉は、五〇〇〇余騎をもって地蔵嶽城(後の大洲城)を囲みこれを落とした。従う武将の中には兄直昌もいた。鴾森城(大洲市北只)に退いて再起を図ったが、頼みとする元親の援軍は来ず、進退きわまった直之は、前非を悔い河野の軍門に降った。身柄は兄直昌の預かるところとなった。

こうして直之は囚人として兄直昌の監視下におかれたが、天正二年(一五七四)小田町で貝足五両分の地を与えられた。しかし彼はそれを不服として、ひそかに妻子を連れ元親を頼って土佐に逃れ、喜多郡の旧領に帰るよう画策をはじめた。

天正二年八月に長宗我部元親が中に立って兄弟の和睦をはかり、両者は閏八月二五日、いよいよ予土国境の笹ヶ峠で会見する運びとなった。
その日、元親は直之を伴って笹ヶ峠甫見江坂に、直昌はそれより五○町ばかり距った樋ヶ崎まで出向き、互いに使節の礼があって前進した。

このとき土佐の伏兵二〇〇余人が前後から、ときの声をあげ発砲して現れた。不意をつかれた久万山勢はその死傷数知れず、直昌の弟東筑前守をはじめ、喜土、樋口、土居、林、安持、荒川、近沢等屈強の士七〇余人は乱戦の中で悉く討死を遂げた。

しかし、直昌は名だたる知勇兼備の名将のこととて、大敵の囲みをものともせず、士卒を叱咤して奮戦し、遂に土佐勢を切り崩し、一族の尾首掃部、尾崎丹後守、日野九郎左衛門等と、逃げる敵を甫見江坂の東まで追撃し、勝どきをあげて帰軍した。この時、土佐方は長野兄弟寺町左近以下八〇余人が討死したという。こうして直昌は九死に一生を得たが、一族家臣の大半は討死し、再起し得ぬほどの大打撃を受けた。

予陽河野家譜より
千人塚(小田南山)
笹ヶ峠合戦から帰る途中力尽き絶命した者達を祀っているといわれる

これが予陽河野家譜が語るところの「笹ヶ峠合戦」、今に言う「大野ヶ原の戦い」です。

「熊大代家城主大野家由来」「大野直昌由来聞書」などにも、笹ヶ峠合戦にいたるまでの元親と直昌との間で往復したとされる文書の記述などがありますが、いくつか疑問点も指摘されていて、先祖の華々しい活躍を伝えようとする後裔の創作ではないかと見る向きもあります。

ただことの顛末は別にして、この時点で一族家臣の多くが討死し、直昌の勢力が急速に低下していることから、何らかの騒乱があったことは間違いないでしょう。

ほうじが峠
大川の土居一族が一朝が原から帰る途中、大川を目の前に しながら息絶えたことから
「法事が峠」と呼ばれるとのこと。塚はもとの尾根道の峠にあるそうです。

そこでとなりの高知県津野町に、この戦いについての記録や伝承は残っていないものかと思い、津野町教育委員会に問い合わせたところ、学芸員の田中勝幸様より、津野町の旧家前田家に伝わる古書の写しを送っていただきました。
作者は18世紀後半、北川村(現在の津野町北川)で医師をしていた上岡秀造だと言われているそうです。

津野の古書における大野ヶ原の戦い

小松ヶ池(大野ヶ原)

津野城主の九代目、弥次郎元高公が二十五歳で逝去された。奥方は伊予国司の河野通定の娘である。元高公の死後、室は御年二十二歳で高野山上蔵院において出家され、御法名を「天華比丘尼」といった。
河野と津野が相談し合い、伊予と土佐の国境にある大野原に、一宇の寺を建て、『大野山河野院茂林寺』と名付けて、元高の菩提を弔わせることとした。

さて、この原には『小松の池』という大きな池があり、「大蛇が住んでいて、一丁の内に入ったときは、にわかに雨が降りだし、黒雲が起こって雷電が夥しく、天光が頻りに光って人を取ることは数知れない。」といわれていた。

そこで天華比丘尼の願いにより、池の東の森に大六の地蔵菩薩が安置された。これによって、池は静まり、原地のように風が吹いても浪は立たず、池の近くまで人が行っても、人が取られるようなことはなく静かであった。

それからの寺は殊の外に繁昌して、天華比の弟子も増えて始終住むようになった。それで深山のことでもあったので、津野から一人、河野から一人を交代によって侍二人をあてて互いに詰めさせ勤番していた。

徐々に住人も住家も増えてきて、二百軒程の町家ができて、酒屋や宿屋までが建ち並び、諸堂や末寺も段々できて、殊の外賑々しくなった。そうして天正の頃までは、両国から交代で役人を詰めさせていて、寺も繁昌して、町家も商人も自慢して暮らしていたが、天正三・四年頃に滅亡してしまった。

その原因を尋ねると、この時の交代勤番は、河野からは家臣の大野左衛門尉直行が在番であり、土佐からは津野家臣の南部左衛門尉貞久であった。
三月なので、まだ雪も積もり残っていて寒く、誰もが爐辺に競って入り、たき火にあたっていた。

伊予の生石村の者と土佐商人が博奕の勝負で口論しだし、殊の外大喧嘩になり共に人傷に及んだ。皆なすすべがなかったので、両国の役人に訴えた。
南部、大野の両人の詮議が長引く中、誰かが町外れの野山より火を放った。
火は激しい春風にあおられ大火事となり、寺を残して町家は全焼し、老人や子どもをはじめ多くの人が命を落とし、生き残った者も家を失い流浪の身となってしまった。

この時の出火を伊予では土佐の者が火をつけたと言い。また土佐では伊予の人が火をつけたと思っていた。

その年の秋になって、伊予においては大野直行を召し出し「時ならずに放火され大火となった事は、勤番の勤め不十分である」と咎められた。また土佐では、南部左兵衛門が津野の咎を受け入れた。これによって、大野、南部互が遺恨を含むようになり、両国の人々も互いに憎み合うようになった。しかる後、南部、大野が手勢を繰り出して大野ヶ原にて一戦に及ぶことになったのである。

お互い小勢とはいっても、身命を顧みず戦うほどに、追いつ追われつ一里の大原で我を先にと戦ったが勝負はつかず、日は早、西の山に傾いたので、戦いを止めることとなった。

その夜、土佐では津野家から「南部に加勢せよ」とあったので、近辺の侍、永橋蔵人、中越四郎太夫、松山蔵人、明神清兵衛門、長山曽助が差し向けられ、手勢を引き連れて南部の陣に馳せ参じた。
また、河野からも「大野に加勢せよ」とあって、林権助、曽根丹後守など数百人が大野の陣に加わった。

明ければ早々から鯨波(鬨の声)を上げ、双方が出会いたるところに、北の山よりその勢百余人、水色の旗に「高」という字の名印したる勢が、一文字に両陣の間に走り来る。いかなる者ぞと見るところに、「松山領麻鹿の城主よりあつかいとして髙橋宋女頭参着!」と、呼ばわった。先ず、この戦は麻鹿より扱い(仲裁)にて双方和睦することとなった。

だが、その頃土佐は長曾我部元親を頼る時分だったので、互いに和睦の会に礼して会うはず所、上下具足を着、或いは鎖帷子を着、腹帯をしめ、出会ったとたんに戦を始め、大野勢を一戦に打ち亡ぼした。直行は戸坂という所にて死んだ。
この南部の無勇の働きを、憎まない者はいなかった。

これによって寺は破却し、仏をまつる人もなくなり、その後はもとの草むらになって、ここで死んだ人の墳墓の場所さえ知らない。

津野町旧家前田家の古書要約
大野ヶ原の峠道

こちらは予陽河野家譜とは随分趣が異なり、所々に創作の域をでない記述や直行の所属や死など史実と異なる記述も見られますが、「大野直行」「長曾我部元親」「和睦」「仲裁」「だまし討ち」などの共通ワードもあり、このあたりに歴史の真実を紐解くヒントがあるのではないかと思われます。

さて、3つ目は番外編といったところで、偶然小田町の廣瀬神社で見つけた神社の由緒書きにあった大野ヶ原の戦いを紹介しましょう。

小田廣瀬神社由緒における大野ヶ原の戦い

第89代後深草天皇の建長2年(1250)に国司大田民部太夫大野伊勢守が土佐軍と大野ヶ原に対陣せしが戦況不利なる為、小田深山妙見ヶ森に退却して此処の産土神に戦勝を祈願し、うたた寝する事いくばくも無くして神夢を賜りて直ちに軍を大野ヶ原に進めて土佐軍を大いに撃退し勝利を得、此の郷を妙見ヶ森と改め神号もまた「妙見宮」と改称された。
爾後、大田家累代の祈願所18社の1社となり、沢山の田地および社殿改築の用材に至るまで寄進され、蛇の目御紋章をも賜り崇敬が深かった。廣奴の郷の大田郷と改称し後世誤りて小田郷と言い後に「廣瀬神社」と尊称し奉れり。

廣瀬神社由緒


廣瀬神社(小田)

こちらは年代も遡り、鎌倉時代前期のようです。古来、隣国との騒乱はよくあることで、このような争いがあったとしても何ら不思議ではありません。そうすると大野ヶ原の戦いは二度あったということになります。

冒頭でもふれたように鎌倉時代であればまだ「一朝が原」と呼ばれたいた時期なので「大野ヶ原」の地名がでてくるのは少し変ですが、伝承していく内に時代に合った呼称に変更されていったのかもしれません。



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