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文章青年03 1900年代の地方雑誌

1900年前後の地方における「文学雑誌」

 小木曽旭晃『地方文芸史』に取り上げられている雑誌は自ら「文学雑誌」を名乗るものがほとんどであり、ジャンルは小説・新体詩・和歌・俳句・漢詩文・「美文」といった文芸に限られ、論文も「漢詩、漢文、論文等の硬派文学」という範疇に入る。それらの文芸は俳諧や漢詩文の既存の結社や私塾に依存したものではなかった。旭晃の考える「地方文壇」とは「東京を除きたる、所謂日本六十余州の文壇を総括したる」ものである。1900年前後には「地方文壇」を主張できるまでに、地方にも新しい文芸テクストの書き手が育ってきたのである。

 先述の『鴛鴦文学』を旭晃は「当時の地方雑誌中に雑誌らしき雑誌を求むるれば、先づ本誌を推さゞるを得す」と高く評価していた。この雑誌は、規則に「本会は全国文学篤志者と共に文学を研鑽し斯学の鼓吹発達を謀るを以て目的となす」(「鴛鴦文学会規則」『鴛鴦文学』2号、1900.12)と「文学の研鑽」を目的として掲げ、「投稿種類は凡て文学趣味ある作品に限る」(「投書規程」『鴛鴦文学』2号) という投書規程を設けた純然たる「文学雑誌」だった。

 しかし、この「文学趣味」は雑誌の中で微妙なゆらぎが見られる。『鴛鴦文学』についてはすでに長尾宗典『〈憧憬〉の明治精神史 高山樗牛・姉崎嘲風の時代』が詳しい分析を行っており、同人の文学観についても「同人たちの文学への情熱は、当時新聞紙上などで問題視され始めた堕落学生と自らを厳しく峻別する意識と、文学の修養が国民品性を向上させ円満なる国家の完成に寄与するというオプティミスティックな論理とによって支えられていた」 (225p)と要約している。このような修養の文脈につながる「文学趣味」の一方で、恋愛を題材にしたテクストが見られる。長尾論は賛助員であった地元俳人の川島奇北が「恋愛とかいふ部分のものは、一切抜きに致したきものなり」と「恋愛論の掲載に猛反発した」ために恋愛に関する文芸批評がその後十分な展開を見なかったと指摘している。奇北の反発とは次のようなものである。

恋愛とかいふ部分のものは、一切抜きに致したきものなり、先にも一寸言ひし如く、鴛鴦三号が二号より悪しといふは、此処をいふなり、諸君も恋愛小説に筆を染むるよりは、他の日記なり、紀行なり、又は叙事の文なりに、御勉強ありたし、一寸申せば、小見の真観寺の古穴を見るとか、百穴とか、熊谷桜とか、熊谷寺とか、竹井の池亭とか、行田の縞市又は雛市とか、消防の出初とか、館林の桃とか、東照宮の祭礼とか、題はいくらもある也、御承知を乞ふ、右の事山田君にもお話を願ふ、妄言失敬。
(奇北「薇山君」『鴛鴦文学』4号、1910.10)

 奇北は「恋愛」を『鴛鴦文学』に持ち込むことに苦言を呈している。3号には、うふう(野本宇風)「文学小観」(論説文)、月湖生(今井月湖)「吾が庭」(叙事文)、近藤雲外「愛」(「美文」)など文中に「恋」「愛」について言及したテクストがあったが、奇北に直接的に批判されているのはゑんげつ(山田円月・山田良三)「大自惚」(『鴛鴦文学』3号、1901.2)という「恋愛小説」である。名望家の息子が汽車中の見合いの場にたまたま居合わせ、密かに恋していた相手の女の恥じらいに自分に対してのものかと自惚れるが、後で真相が分かり自暴自棄になるという小説である。当時の投稿雑誌の小説批判の多くは、風俗壊乱を招く「恋愛小説」に向けてのものであり、奇北の苦言もそのような批判に棹さしたものと言える。

 代わりに奇北が推奨しているジャンルが日記・紀行文・叙事文である。題材も名所旧跡や地域の行事などであり、このようなジャンルが『鴛鴦文学』同人の中心であった中学生にふさわしい文学として、賛助員から求められたのである。書きたい文学と書くべき文学をめぐって関係者の中で意識のずれと葛藤が生じていた。

 ただし、当時の投稿雑誌を見ると日記・紀行文・叙事文は掲載数も投稿数も非常に多い。これをすべて不本意なジャンルの選択とすることはできない。これらは地方の投稿少年・青年層が最も手を染めやすい表現形式であったと共に、文章修行のもう一つの動機である自己語りを直接間接に可能にする文章だったからである。一方、小説は彼らを戸惑わせるジャンルだった。当時の投書には小説の書き方の教示を求めるものが多い。中央や地方の雑誌に投稿された小説、そして選者による選別を受けなかった回覧誌に掲載された小説の多くは、日記・紀行文・叙事文と区別できない。また文章修行自体が、虚構的な設定の上で文章を綴る題詠的なものが多かった。彼らにとって小説とその他のジャンルの区分はそれほど自明なものではなかったのである。

 石島薇山は奇北の苦言の冒頭に次の一文をつけ加えた。「文筆を執らん青年の一顧する価あるべしと信じてこゝに載せつこれに対する私見は次号に掲げん」。次号は発行されなかったので薇山がどのような見解を持ったかは知るよしもないが、奇北の私信を「一顧する価あるべし」として掲載する理由の一つは、奇北が『鴛鴦文学』に積極的に援助していたからであろう。毎号印刷費に二円を援助し 、俳諧の選者としても重要な役割を果たしていた。いわば鴛鴦文学会の後見人的な立場であり、その苦言は無下にはできないものだっただろう。『鴛鴦文学』の場合は、修養的な硬派の「文学趣味」と恋愛に向かう軟派な「文学趣味」が混在している。中学生が主体であるがゆえに、地元の文人や教員の後見によって雑誌が辛うじて公刊されていたのであり、結果的に修養が恋愛を抑圧する誌面となった。地方文学雑誌は自由な表現の場であったとは必ずしも言えない。それは公刊による資金の問題もからんで、地域の教育者や既存の文学者から干渉を受けるものであった。この中で修養に積極的にコミットする中学生もいたことはすでに長尾論が明らかにしている。これは第1回でふれた永井論が分析した『中学世界』の漢文脈的なエトスを身体化した中学生と、そのような抑圧に対して内面を綴り始める中学生に分化していく様と重なっている。これは地方の文学の担い手の多層性と多元性、そして彼らの間の距離に基づいている。地方雑誌では世代や各集団の関係が近くまた相互に絡み合っている場合が多く、特に学校を発行の基盤にした雑誌はその傾向が強いのである。

1900年前後の地方における「文学」雑誌

 1900年前後の地方雑誌では「文学雑誌」とは異なるもう一つの系統の雑誌を見ておかねばならない。これが序章でふれた『武陽文壇』のような「文学的のものではないらしい」雑誌である。『武陽文壇』は現存が確認できないが、『鴛鴦文学』ではもう一つ文学的ではない雑誌についての言及がある。

◎智識の戦場は、文学雑誌ではない、併し八百屋的なのには、感服しない。
(馬骨「我楽多録」『鴛鴦文学』2号、1900.12)

 「文学雑誌」とそうではないものを、寄贈された地方雑誌の中で峻別していく姿勢は、『鴛鴦文学』が意識的に文芸の領域にとどまろうとしたことを示すものである。それは「文学雑誌ではないもの」を一方で規定する。ここで、注意しておくことは「八百屋的」という評言である。掲載された文章のジャンルが多様であるという意味にとれる。では「文学雑誌ではない」『智識の戦場』とはどのような雑誌なのか。

 『智識の戦場』は1899年2月に福島県西白河郡矢吹村の神洲青年研究会によって創刊された雑誌である。神洲青年研究会は大日本協会の会員であった矢吹平司が募集を始めた日本主義の結社だった 。2号(1899.3)には寄稿を約束した大家として井上哲次郎・元良勇次郎・内藤恥叟・竹内楠三・高橋龍雄といった大日本協会と雑誌『日本主義』の関係者が名を連ねる。

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『智識の戦場』2号、1899.3、木戸架蔵

 矢吹は書籍新聞雑誌の取次のほか文具や洋酒などを売る正気堂を経営しており 、おそらく地域の名望家層であろう。通常会員の他に名誉協賛員と特別協賛員があり、特別協賛員は寄贈額が一円以上だった。『鴛鴦文学』2号には『智識の戦場』17号(1900.8)の寄贈があったことが記載されているが、17号には名誉協賛員として熊谷中学校教諭穂積積の名が見える。穂積を通じて鴛鴦文学会にこの雑誌が寄贈された可能性がある。

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『智識の戦場』1号、1899.2、木戸架蔵

 第1号の誌面構成は「智識の戦場」という論説欄に「雑録」「筆戦場」「文壇」「詩壇」「和歌」であり、次号より「講義」「質疑応答」「彙報」「懸賞題」を設けるとしている。2号には「小説」欄もできた。17号も欄の名称は変わっているがほぼ同様である。そして「智識の戦場」欄には次のような「注意」が掲げられた。

本欄は文章の巧拙を論ずる処にあらずして会員の意見を発表すべき所なり蓋し国家の強盛を望まんと欲せば務めて民心の統一を計らざるべからず然るに今や国民の思想は多岐に分列し或は西洋流に迷ひ或は日本的に固執し或は社会主義を唱へ或は国家主義を説き遂に其一致するの時機を窺知する能はず是れ大に慨嘆に堪へざる所なり本誌は其分列せる思想を一場に会して優劣を比較し大に精神界の淘汰を行なひ以て国民の思想を一に帰せしめんとす故に若し文に拙劣なる者と雖ども多少の意見を負持するの士は只口上の儘に記載して奮て本欄の寄稿を為せ編者は可成之れを文に補綴して茲に掲出すべし但し会員に限る
(『智識の戦場』1号)

 この「注意」には二つの注目すべき点がある。一つは「智識の戦場」欄が国民の思想を統一するために、分裂した思想を一場に会して優劣を比較する場であるということである。これは高山樗牛が日本主義の思想的態度として「世界一切の事物に就いて、名目の東西に拘らず、其の所在の彼我に泥まず、無私公平の秤量によりて是を取捨し、撰択せざるべからず」(「明治思想の変遷」『太陽』4巻9号、1898.4)と主張したことと重なる。多様な思想を並べ、それを「無私公平」に「取捨選択」する場として「智識の戦場」は想定されている。また、樗牛が主張する日本主義の知的態度は、水平的な議論というコミュニケーション形態の青年層における広がりを当て込んでいた可能性があるが、『智識の戦場』には実際の議論の場として「筆戦場」欄も設けられた。これは他の文章への反論を載せる欄であり、議論が号を追って行われる仕組みだった。

 もう一つは、文章そのものの優劣が度外視されていることである。その際オーラルな文を文章に直すという条件まで示している。「筆戦場」欄も同様の「注意」があった 。内容に重きを置いており、「文学趣味」を前面に出した『鴛鴦文学』とは文に対する意識が大きく異なっている。

 一方、「文壇」欄には添削と評が付けられた。これは規則の第一二条「通常会員ハ毎月一回文章ノ添削ヲ請フコトヲ得/其卓越ナルモノハ機関雑誌ニ掲載スベシ」による。『智識の戦場』は文芸雑誌・作文投稿雑誌・言論誌の三つの系譜を併せ持った雑誌であった。その意味では1890年代の『東洋文学』と同様である。ただ、『東洋文学』が地域の既存の文学結社や教員たちに頼らざるを得なかった結果の多様な誌面だったとすると、『智識の戦場』は特定の理念と営利によってより広く投稿者を募った結果の多様な誌面である。

 『智識の戦場』には日本主義系の人脈とは別に、もう一人興味深い人物が関わっていた。先述の大家寄稿者の末席に「著述家」として、文学同志会の主宰者大月隆の名が見えるのである。大月は1号から2号まで「智識の戦場」欄に「将来の文学者に与ふるの書」を寄稿した(ただし未完)。また、投稿者への懸賞には文学同志会の本が与えられた。

 文学同志会は出版社であるが、地方の文学家志望者の互助組織でもあり 、地方の文学家志望の青年の活動をそのまま出版に取り込もうとしていた。その出版活動は地方の「文学」の実態をある程度反映していると考えられる。詳細は宗像和重の一連の論考(「もう一つの『文章世界』―大月隆と文学同志会のことども―」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』63号、2018.3。「もう一つの『文章世界』―臨時・定期増刊号を中心に―」『日本文学研究ジャーナル』9号、2019.3)で論じられている 。文学同志会の会則の冒頭は次のようなものである。

余か会の目的は東西の文学を調和して日本の新文学理想を起し実業と文学の調和文学と諸科学の帰一する所の妙理を発表し余が国をして実地と理想と相伴へる処となし進んでは東西を教化し得べき純正円満の光明を吾か同朋のうちより世界に向ひて発するにあり余か会は社会より寄送する文章詩歌演芸記小説経文比喩文俳諧等を集め紙数二百頁以上に集まるときは之を会員文学集となして出版し正員及ひ愛読者に配布す
(「文学同志会会則」『美妙』1896)

ここでは「実業」と「文学」の調和が謳われ、「文章詩歌演芸記小説経文比喩文俳諧等」という幅広いジャンルの文が挙げられ、それらが集まれば「会員文学集」になるとする。文学同志会が発行している投書雑誌『文章世界』には28種のジャンルが列挙されており、「小説を除いてあらゆる「文」が網羅されているといっても過言ではない」 。宗像論は大月隆『文学の調和』(岩藤錠太郎、1894)を分析して「大月隆において「文学」は、いわゆる「文芸」の範疇を超えて、すべての書かれたもの(=文章)を包括する概念として理解されている」と述べている。この文学同志会の刊行する書物群もまた多種多様であった。文芸とは異なる「文学」の広い領域を文学同志会の出版活動に見出すことができるだろう。

 1900年前後は狭義の文学と広義の「文学」が併存していた。「文学雑誌」は修養と内面の間を逡巡しながら他のジャンルから文学を切り離すことに意識的だったが、「文学」の雑誌はむしろ「実業」までも包摂しながら多様な文を許容した。そして地方の読み手=書き手はこの文学と「文学」の間で文筆活動をしていたのである。

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