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書物の転形期:和本から洋装本へ

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このエッセイでは日本で洋装本が登場してから定着するまでの時期、すなわち十九世紀後半から二十世紀初頭までを対象として、書物の技術と当時の新聞広告や目録の記述などとを照らし合わせつつ…
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#ボール表紙本

書物の転形期09 洋式製本の移入6:印書局設立前後の官庁洋装本

民間の簡易な製本 『官版 国立銀行条例 附成規』は、現在確認できる官庁出版物最初の洋装本であり、「ボール表紙本」の嚆矢とも見なされている。すでに述べたように、それはパンフレットの製本術によって製作されたものだったわけだが、実は同様の製本は同書刊行の前年、1871年にすでに民間で製作されていた。  大野九十九『解体学語箋』(須原屋伊八、1871)は、ラテン語の解剖学用語とその訳語を示した用語集である。1871年10月付の「題言」には「今官其稿ヲ購ヒ更ニ校正ヲ命シ之ヲ鉛版ニ印刷

書物の転形期08 洋式製本の移入5:印書局設立前後の官庁洋装本

『官版国立銀行条例附成規』 1872年11月に刊行された『官版 国立銀行条例 附成規』は、『傍訓英語韵礎』とともに「ボール表紙本」の嚆矢とされる。そしてこの本は現在確認できる官庁が刊行した最初の洋装本でもある。1871年8月、大蔵省内に紙幣寮が置かれた。12月には渋沢栄一が紙幣頭を兼任し、1872年8月には銀行課が設置され、金融制度の確立と国産紙幣の製造という大仕事が進められていた。そこで定められたのが国立銀行条例である。6月に草案が完成したこの条例を大蔵省は印刷製本し頒布し

書物の転形期07 洋式製本の移入4:共立学舎による米国版教本の模倣

尺振八と共立学舎  鈴木徳三「明治期における『ボール表紙本』の刊行」(『大妻女子大学紀要 文系』24号、1992.3)は、「ボール表紙本の創始」として、ともに1872年刊の『国立銀行条例 附成規』、『傍訓英語韵礎』の二書を挙げている。しかし、「ボール表紙本」という呼称は後世のものであり、1872年当時はこれが洋装本の一様式として認識されていたわけではない。「ボール表紙本」という様式が認知されていく過程は後にまとめてふれることにして、ここでは「ボール表紙本」と見なされるような製