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毛皮の魔女とたんぽぽ【創作】

たんぽぽよ。お前はきっと今年の春もこのほら穴へ綿毛を飛ばしてくるのだろう。しかしその時には私はもうここにはいないのだ。以前お前が私に言ったように、ほら穴から出て外の世界を見てみることにしたのだ。そこで旅立つ前に、今度は私からお前へ言葉を残していこうと思う。

たんぽぽよ。お前にはまず礼を言いたい。私はいつもお前の飛ばす綿毛で春を知っていた。たとえここへ流れ込む空気が暖かくなり、入り口に穏やかな日差しが差し込もうとも、お前の綿毛がやってくるまでは、私は冬の眠りの中にいたのだ。目を開けていても闇しか見えず、鼻は冷たい空気に痺れてひくとも動かず、耳に届くのは幻の雪が降る音だけ。もうずっと長い間、暗く冷たい穴に閉じ込もっていた。春も夏も秋も知らず、知ろうともせず、土の寝床で石のように丸くなって眠り続けていたのだ。

そんな私のもとへ、お前はいとも容易く春を告げに来た。白い綿毛で宙を漂い、小さな種をぶら下げて、私の鼻先へ降りてきてこう言ったんだ。

「僕は種を届けているのです。どこへとも、どこにでも、風が届く場所ならば。だからこうして、あなたのところへやって来ました」

私は言った。ここには種はいらないと。しかしお前はふわふわと笑って答えた。

「そうではありません。風が届く場所が、種の居場所となるのです」

そうして、私の足の下に落ちて来た。

この暗いほら穴ではお前の種は育たないというのに、お前はその年から欠かさず私のもとへ綿毛を飛ばしてくれた。お前の種が飛んでくる度、私はそっと土をかけてやった。いずれも芽は出なかった。勿論期待はしていなかったが、それを止めようとは思わなかった。お前と共にやってくる春の風は清々しく、何かを動かす力を乗せた風だったからだ。

あれは去年の春だった。お前は私の鼻先へ飛び付いて、こう言った。

「あなたはいつもここにいますね」

お前と違って、私にはここしか居場所がないからだ。そう答えると、お前はゆっくり土へ降りながら、私を見上げて言った。

「風が届く場所ならば、僕が飛んできた青く透き通る空や、吹き流される白い雲や押し倒される草原だって、あなたのもとへ届くでしょう」

そんなものが私に届くわけがない。しかしお前は綿毛をふるふると震わせた。

「いいえ。風は分け隔てなく吹くものです。僕があなたのもとへ飛んでくることが出来るのは、風が届く場所だからなのですよ」

その言葉は、確かに私の心を動かした。お前も春の風そのものだったと、今なら分かるのだ。

もう記憶が薄れてきているが、大昔、私は人の皮を被っていた。あるいは本当に人だったかもしれない。しかし今は、この深いほら穴で眠り続ける熊の毛皮を被った何かだ。こんな状態で朧気な記憶に頼っても仕方ないのだが、以前の私はお前の種のように、外の世界と、人々と繋がっていたはずなのだ。彼らは私を知恵の魔女と頼り、私は持てる力を惜しみ無く使って役目を果たした。私は居場所を与えられ、人々の願いに応え続けていた。

しかしいつの日か、私を見る彼らの目に言い様のない恐れが混じり始めた。それは次第に目から洩れだし、手足や口に伝わって私への態度に出ていった。そうして恐れが色濃く人々を包み込むようになった時、ついに彼らは私の皮を剥がし、山に追いやった。私は何か間違いを犯したのだと思って、幾度か彼らと話し合おうとしたのだが、彼らの目も耳も手足もすでに私を拒んで受け入れなかった。私はなす術なく山へ退いた。

彼らが何を恐れたのか、今でも分からない。彼らは私の皮の下に何を見たのだろうか。それを問いたくても、私を追放した彼らはもうこの世から去り、真実は土の中へ埋もれてしまった。

人の皮を失った私は様々な獣の皮を被った。兎、鹿、狐、狼、熊。しかしどれを被っても、私の皮の下の何かは満足しなかった。何を被ってもかつての力は戻らず、かつての居場所へ帰る術もない。それでも皮の下の不定形な塊を隠したくて、数多の獣の皮を剥いで身に纏った。獣の臭いと血にまみれた私を、人々は毛皮の魔女と恐れ伝えた。

やがて心さえ獣に染まり、その衝動のままに幾度か人の皮を剥いだこともある。しかし人の皮でさえも、かつての私が纏った皮には成り得なかった。私の皮は私だけが持っていたものだと悟った時、数多の生き物の死とその皮が毒となって私の身体を蝕み始めた。だがそんな状態になっても、私は皮を脱ぐことが出来なかった。悩んだ末に、私は最後に剥いだ大熊の毛皮を被って、山の穴の中で眠りについた。そうして長いこと、毒がこの身と皮を蝕んで朽ちるのを待っていた。

しかし、たんぽぽよ。お前は春を届けてくれた。種を届けてくれた。こんな獣か人かも分からなくなった私のもとへも分け隔てなく、ただ風が届く場所というだけの理由で。それがどれ程私の背を押してくれたか。皮に縛られていた体を解放してくれたか。終わりがないと思っていた苦しみは、皮でなく外ではなく、私の内にこそあったのだ。ほら穴に埋めた種が芽吹いた時、私はようやくその真実へ辿り着いたのだ。

私は熊の皮を脱ぎ捨てていく。もう皮は被らない。しかしそうなると、お前はもう私を見つけることが出来ないだろう。しかしお前の言う通り、風が届く場所ならば私の種はどこへとも、どこにでも届くだろう。そこで芽吹いた種を、今度はお前が見つけておくれ。それから、どこかにいるかもしれない私の様な誰かへ、春の風を届けておくれ。

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