箟峯寺(奥州三十三観音第9番札所)
第7、8番札所とともに奥州三観音に数えられる第9番札所無夷山箟峯寺(むいざんこんぽうじ)がある箟岳(ののだけ)山は、宮城県涌谷(わくや)町にあります。
仙台平野にこんもりと盛り上がるようにある丘陵で、奥州三観音の他の2札所と同様に、眺望が開けた風光明媚な場所です。
箟岳山は信仰の山で、山内にある観音堂、白山社、山王堂、衆徒十六坊を総称して箟峯寺といいます。
開創は宝亀元(770)年、大伴駿河麻呂による蝦夷征伐の際、加賀国より白山権現を勧請し、光仁、桓武、平城帝の奥州鎮護勅願所とされたことに始まります。
その後、延暦20(801)年の坂上田村麻呂による蝦夷征討の際、この白山権現社の前で田村麻呂は勝どきをあげたとも伝わります。大同2(807)年には、坂上田村麻呂が敵味方の戦死者を葬って一宇を建立し、京都清水寺から十一面観世音菩薩を御本尊として勧請し、箟岳観音としたと伝わります。
嘉祥2(849)年には、慈覚大師円仁が奥州巡錫の折に立ち寄り、堂宇を増築、弟子の尊常を住持させ、無夷山箟峯寺尊常住院と改め、天台宗の寺となりました。
南北朝時代に最も栄え、明治維新まではいかなる罪人でも大門から一歩足を踏み入れれば、藩の役人も捕らえることはできなかったそうです。
山門に続く階段の前に駐車場があるので、そこに車を停めます。「天台宗無夷山箟峯寺」という看板が設置されていました。
約100段ほどの階段を上ると山門、その右手に白山社があります。山門にいる仁王様は仁王様らしからぬお顔から、「微笑みの仁王様」とも呼ばれています。
山門からさらに20段ほど進むと、観音堂に着きます。観音堂は奥州札所の中で最も大きなお堂で、外陣正面には、「奥州鎮護」と記した縦1.7m、横1mの扁額が掲げられ、堂内は古刹の風格漂う大変厳かな空間になっています。
この観音堂、蝦夷征討時の戦死者を葬った上に建てられたという言い伝えが残されています。そう考えると、「無夷山」という山号に胸が熱くなります。
古刹の宿命とも言えますが、堂塔はたびたび火災で焼失し、現在の観音堂は嘉永4(1851)年に再建されたものになります。
観音堂の右手には、慈覚大師円仁が勧請したと伝わる山王堂があります。
境内は樹齢数百年の杉木立が生い茂り、天台宗の古刹に相応しい雰囲気に満ちていました。
こちらは田村麻呂の没後1000年の節目に建立された供養塔です。同じものが第8番札所梅渓寺がある牧山にもあるそうですが、見つけられませんでした。
箟峯寺の本尊は秘仏で、三十三年に一度御開帳されます。次回の御開帳は2041年です。
御朱印は山門をくぐってすぐ左手にある寺務所でいただきます。法事等で住職さんが不在でなければ直接書いていただけます。不在の際は書置きがあるようです。先に御朱印帳を預けてから参拝することをおすすめします。
【ご詠歌】ちえのやに いるののたけの ふしこめて だいじだいひの つきもゆみはり
【宗派】天台宗
【本尊】十一面観世音菩薩
【住所】宮城県遠田郡涌谷町箟岳字神楽岡1
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