無題

令和元年早秋東京、同年代が社会人になっていく中、知らぬ間に開いていく周りの人達との距離に寂しさを感じる暇もなく過ぎていく日々に、自分はついていけてないように感じる。この四季折々の変化があるとされる日本にいながら、歩く町の風景が変わっているようには見えず、自分が枯渇していくのを食い止める術はわからないままでいる。
近頃、中学の頃よく聴いていた歌を思い出す。いつか志磨遼平は「音楽がなくても 僕らは死ぬワケじゃない」と歌っていた。

例え音楽がなくても人は生きていけるものだし、それ自体に価値はないものだけど、自分にとっては紛れも無くなくてはならないもので、価値のないものに縋り付いて生きてきた自分は、今まで意味のない音楽に何度も救われてきた。過去に自分の身に最悪なことが起きたことを発端として、全部終わってもいいなっていう思考に陥った時期があったが、そんな状況でも音楽だけは寄り添ってくれた。今思えばそれは単なる若さ故の独善的な考えに陥っていただけに過ぎず、文化や創作物、人と関わっていく過程でその凝り固まった思考は解れていった。大岡昇平の戦争体験を基にした戦争文学『野火』を読んで、死は尊いものであることを知った。人と交わる中で、家族じゃ治せない傷もあることを知った。アーティストが富や名声のためだけじゃなく、そのピュアな気持ちで答えのない悩みと戦いながら制作した物は確実に誰かの心に届いていて、心に心地いい風を吹かせる。

自分を客観的に見る術を未だにわからないままでいるし、何かを言いたいってわけでもないけど、唯一言えることがあれば、音楽は人を救え得るものであるということ、ただそれだけは自信を持って言える。自分が生きてきてそう肌で感じた。今思い返しても、あの日は志磨遼平の歌に救われた夜だったような気がしている。いつか平凡な自分でも誰かを救える日が来るだろうか。あの日に自分は誰かに恩返しをするために生きていこうと決めた。自分の生きる方向が見えた。ネガティブからポジティブに完全に振り切ったわけではないが、そう考えることで自分を救うことができた。

生まれてきてから今まで、素晴らしい出会いが数えきれないほどあった。価値観は目まぐるしく変化し、ほんの少しだけ自分を客観的に見る術を知った。みんな自分が何者であるかをよく教えてくれた。大きな夢をたくさん聞かせてくれた。平凡な自分は心の底から、その夢を応援したいと思った。
思えば、まだ10歳にも満たないころから取り柄のなさを自覚していたし、夢を持ったことなんてなかった。現実的で、静かで、手間もかからなかったと母は言っていた。ただ、元気で活発な兄といる時だけは、兄につられてうるさく騒いで走り回ったと聞かされた。きっと自分を引っ張ってくれる誰かさえいれば自分自身を上手く表現できたのだろうと思う。

情けない話、未だに人に語れる夢なんて持たずに、人前で自分を上手く表現することも出来ずにいるが、そんな自分に目を掛けてくれて、面倒をみてくれて、仲良くしてくれている、決して多くはない全ての人たちに本当に感謝している。

今日はいつもより少し涼しくて、ふらっと散歩に出かけたい気分になった。近所の窓の開いた部屋から心地いい音が聞こえた。

#意味のない随筆

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