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「CODAの娘」

昨夜は今帰仁村の夏祭りだったけど、前の晩に宜野湾の「フードフレア」に仕事が終わって駆けつけたので、ふつか続けての祭りはさすがに体力がもたないわい、(っていっても旨いストリートフード食べて生ビール飲んでるだけ!)わたしと息子は家でのんびりすることにした。

ソファでゴロゴロしながらyoutubeを見ていたら、ドーン!と外から鈍い音が。

花火だ。

多分、屋上なら見えるかも。まだ今夏、いちども花火を見ていない。

階段を登り、音のする方へ向かうと、暗がりにポツンと母が佇んでいた。
わたしに気が付いた母は、「音でわかったの?」と言ったので、「そうだよ」と数回頷いた。
パーンパチパチ、パパパーン、どどーん、しゃらしゃら。
いろんな音を響かせながら、夜の空に花火が咲く。
パーン!
なんと、スイカを模した花火があがった。さすがは今帰仁村、スイカの名産地。これを見れただけでも、「今帰仁に住んでよかったなー」と思ったくらい、この村のユーモアとスイカに対する誇りが花火を通して伝わった。
母の肩を指で軽くたたき、「スイカの花火見た?」と言うと、「もう補聴器外しちゃったから」と。すなわち、「聴こえない」、「聴かない」ということだ。

補聴器が母の「きこえ」に対してどれだけ担保しているのかはわからないけど、プラシーボとしての効果は絶大だ。
オンとオフ。補聴器をとったら今日はおしまい。


齊藤陽道くんのことは、七尾旅人くんが紹介してくれた。(君付けは気恥ずかしいけど、君呼びしてるからそう書きます)
やんばるの高江というちいさな村の音楽祭に演奏に来た旅人くんは、その日のライブの映像や写真を記録するために、写真家の陽道くん、映像作家の河合宏樹くんといっしょに来ていた。
当時のわたしは旅人くんにとって「高江の人」であり、「ヘリパッド建設反対行動をしているいち住民」、という認知であったと思う。

陽道くんがいかに素敵な写真を撮る人かを、旅人くんは熱っぽく、絶妙なトーン(囁くような、まくしたてるような)で話す内容の中で、「陽道くんは補聴器を海に捨てたんですよ」というようなことを言った。
そのひとことで、わたしは完全にノックアウトされ、もう頭がくらくらしてしまって旅人くんの話も途中で耳に入らなくなったほど(失礼をしてしまった)ショックを受けた。

重い聴覚障害者にとって、補聴器はいのちの次に大事なものであるはず。
すくなくとも、3歳から耳の聴こえないうちの母にとっては、齢70を超えた今もそうあり続けている。

「補聴器を海に捨てた」
それは、聴くことを自ら手放すことである。「聴こえない」から、「聴かない」へ、「聴こえるふりはもうしない」という意思表明。

すぐに、陽道くん宛に長い長い手紙を書いた。
当時のお住まいであった国立にも(押しかけるような形で)会いに行った。(金色のカエルを飼っていたけど、今も元気かな)

あれから何年経ったのだろうか。

陽道くんから先週、「3人目が産まれました」という写真入りの葉書が届いた。
陽道くんはパートナーの麻奈美さんとのあいだに3人のお子さんがいる。上の子ふたりは耳が聴こえる。
いわゆるCODAだ。(耳の聴こえない親から産まれた聴こえる子どものこと)

うちの母は「聴こえるふり」を、それこそ物心ついた時からそうとう頑張って、神経をうんとすり減らしながら、会話の内容がちっともわからないのにみんなに合わせて笑ったりしてなんとかやり過ごしてきた。
母は、10本の指に届かないほどの数の人にだけ、こころをひらく人生だった。それだけいたら十分かも知れないけれど、超内向的な母の生活圏はいささか退屈そうに若い自分には映った。
結婚した相手(わたしの父)も同級生、お互いの家同士は100メートルあるかないかくらいの距離だから当然気心は知れている。

父は、母と結婚した理由を、「スーちゃん(母のこと)の耳の代わりになってあげようと思った」と言うけど、「モテなかっただけだろ」とこっそり思ってた。
でも数年前に占星術に出合い、「魚座」(父の星座)の特性を知ったら、やぶさか本気だったんじゃないか、と。(魚座のキーワードは、慈愛、境界線が曖昧、自己犠牲、ロマンティックなど)

陽道くんの、「海に補聴器を捨てた」という話を聴いたとき、「母もそんな選択があったのかも知れない」と、今更ながら歯痒く感じてしまって、ぞぞぞっと背中の毛がけばたつような気持ちになった。
でもその選択をしていたら、きっと母は今の母じゃなく、まったく違う人生を送っていたと思う。

「勇気がある人だねぇ」
陽道くんの本(自伝のような)を読んで母は言った。

そんな母は、まいにち孫に囲まれて実にしあわせそうで、「沖縄に来てほんとうによかった」と言っている。




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