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「はんぺんとハート」

今年はなんだか、正月の体感が薄かった。
気温や時間の流れ方が関係しているんだろうか。
いつも最後の最後に歯車がふわっと合って、なんとか「元旦」にスライド出来るんだけど。
でも、やることは同じです。
〆縄を入り口に飾り、大掃除後に孤軍奮闘のおせち作り。
元旦から大勢の友人が来るのは承知だったから、「よーしやるか」と腕まくり。
季節ごとであるこの行為、「せっかくだから」と、自分がどんな心境でお節を作っているのかを観察してみた。
作業中に、ふと我にかえる。また没頭して、ふと我にかえる、を繰り返す。
なるほど、ただ真っしぐらに次の工程をこなすだけで、エモーショナルなことはなんにも想っていなかった。それはちょっとびっくりするくらい。
例えば「〇〇のために」とか「喜んで欲しい」とか、そういうこと。

俄然、「無」であった。

「好きを仕事にする」とかよく言うけれど、それはなんか違うかも知れない。
理由をつけるために、後から「好き」という気持ちを添えても、只中の瞬間は、「好き」とかなんにも感じてない。
それこそ料理を30年くらい続けているが、「続けられている」ということは、「好き」というより「無心」だからじゃなかろうか。それもすべて「慣れ」の果て。(「慣れ」って漢字は、こころをつらぬく、って書くよ!)
感情というものは自然にポコポコ湧き起こるものだから、逐一感じていたら身が持たない。
とはいえ今日(こんにち)まで、「好きだから仕事にしてる」と思っていたんだけど。
パラドックス、真理に近いものは矛盾に満ちているのだ。

さて、お節である。
いちばん緊張するのは伊達巻である。
今年は初めて、「はんぺん」を使ってみた。これまでは白身魚とパプア海老をすり潰して拵えていたのだけれど、とうとう満を辞しての「はんぺん」購入。(白身+海老+はんぺんの三つ巴にしてみた)
それも一度に4袋ときたもんだから、普段から「はんぺん」に馴染みのないわたしにとっては大革命である。
どんだけフワフワになっちゃうの!?って。

がしかし、結果はやんわり失敗した。ここで体のいい言い訳をすると、オーブンの温度機能の調子がすこぶるよくないのです。
伊達巻は「低温でじっくり」が基本なのに、ちょっと目を離すと余裕で220度とかになってしまう。(そんなコンディションのオーブンでケーキを焼いているんだから、潤ちゃんと長男はすごい)
味はよいが、食感はフワフワではなくムニムニ。
それに正直、いざ「はんぺん」と向き合ったとき、ほのかに気持ちのブロックがないわけではない。
既製品を使うとズルしてるみたいで、なんなら「負けたー」みたいな。
こういうときは気が逸れて、感情が立ち上がる。


お節のお品書きです。

それはそうと、ついに先日、伊達巻用として「銅製玉子焼き器22cm」を名護の業務用スーパーで買った。
毎年大晦日に「欲しい欲しい」とひつように迫られて切望するのだが、年明けた頃にはさっぱり忘れてしまうからなかなか買うに至らずにいた。
それがどうだろう、「はんぺん」のことばっかり考えていたせいで、しっかり覚えていたのだ。
「はんぺん」の功業である。

そして「はんぺん」でタガが外れたのか(「はんぺん」ごめん。でも来年もトライするつもりだから)、煮〆の人参も、我が家の定番、「有次」の瓢箪型に加え、末っ子のクッキー型を借りてハートにくり抜いた。
重箱のなかにハートがあるだけで、こんなに和むんだーと、しみじみ思う仕上がりに満足♡

(うちの店に苺をおろしてくれている名護の「まんまる農園」の林くんは、『どうして苺って、「可愛い」と形容されるんでしょうねぇ』と真顔で言ってた。その哲学的な視点がすごく好き)

ハート然り、苺然り。



こちらは去年のお節。

わたしのお節はべつだん、「根本家代々」とかではまったくない。
ガシガシと我流で拵えている。
もちろん縁起物だから押さえるポイントはあるにせよ、もっと自由でいいな。もし囚われているところに気づいたら、どんどん外していきたいです。









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