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自由と束縛からの逃避

※画像と文章は関係ないようであるかもしれません。

仕事を辞めて次への準備を進めている。自分にとっての“次”は今までとは方向の違うもので業種の縛りからすら自由。今までは観光業には携わりたいと思っていたが今回はそれすらなくなっている。

欲しいのは突進してゆく事ができる環境。

私はそれを自由と呼んでいる。自分の意思で事業を組み立ててゆくことを一番の喜びとしたい。それが今自分が欲していること。

実は今までそれが優先順位1位になったことはない。社内起業みたいなことにチャレンジしたり、誰も成し遂げた事がない障壁をぶち破って宮島でイベントをやったり、物事を組み立てて実行してゆくことは自分の力を存分に発揮できて充実していることこの上なかった。これの再来を・・・・というのが今回の決断の柱ではあるのだが、今までと違っているのは、“前提”。

今までは新部署を立ち上げた時はもちろん社内起業なので会社員としてのチャレンジだったし、地域イベントも自由奔放に活動こそしたがこれも会社員としての傍若無人ぶり。今回は何かの傘の下にいること自体が苦しくなったので飛び出したということでいいのかもしれない。そんな言い方をするのは今の時点でそれがまだはっきりとした輪郭を持って見えないからだ。

まぁそういうことだったのかもしれない。

というぐらいで今回の決断を自分が捉えているということ。

なぜそんなふうに感じるのかというと、最近やたらと関心を持って注目している人たちが爆笑問題だったり(今もRadikoで爆笑問題の日曜サンデーを聴きながら書いている)、さらば青春の光だったり、Aマッソだったりどこかの所属から飛び出して独立していたり所属を変えていたり知る人ばかりだからだ。敬愛する神田伯山先生も個人事務所だった。

ついこの前まで出勤時間や休日なども“決まり”に縛られて生きてきた。これが自由になった途端に誰も何も言わない。起床時間も家を出る時間も、やることも何もかも自分で決めるしかない。これこそが自由なのだがそれにはなんだかスカスカした気分が付いて回る。これが正解なのか?って思っちゃう。でもそれを正しいとかちゃんとしているとか判断する前提など今の私には存在しないのだ。

本来怠惰極まりない私が自由に暴れて来れたのは、最後には会社という承認機関があったからなのだろうと思っている。(暴れる)自由と(会社という)束縛はセットであったからこそ傍若無人に振る舞えたのだと思っている。

でも今回はそれを“辞めた”のだ。

これを自由だと感じながら充実するのはまだまだ先の話だろう。

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