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額田大志「未来の観客を待ち続ける」

劇場の機能


劇場は、人が集まる場所であると同時に、「人を待つ場所」でもあると思う。

図書館に行けば本を読むことができ、美術館に行けば展示が見れるように、劇場に行けば上演を体感できる。この機能は、私たちが将来、本を読みたい、展示を見たい、上演を体感したいと思ったときに、真っ先に行くことができる場所ということだ。
つまり劇場は、今、舞台を見たい観客を招きいれるだけでなく、「遠い未来に訪れるかもしれない観客」を待っている。劇場が毎日、あるいは定期的に作品を上演している意義の一つだと感じる。いつの日か「ダンスを見てみようかな」と思ったときに、日常の営みの中で舞台芸術に触れることのできる場所として、劇場は開き続けている。

しかし、新型コロナウイルスの影響により、多くの劇場が一時的に閉鎖してしまった。いつか訪れるであろう人々を待っていた場所が失われ、上演が日常へと介入する機会は著しく減ってしまった。

そのような経緯から、2020年の春頃に『吉祥寺からっぽの劇場祭』の参加オファーを受けたとき、私は「人を待つ場所」としての劇場の機能を有した作品を生み出すこと、つまり、日常に介入する可能性を持ち、かつ未来の観客にも目を向けることを念頭に創作を始めた。「劇場的な機能を持った作品」ともいえる。その試みが、2020年8月8日に開催された『Play from someone(nice sound!)』である。


『Play from someone(nice sound!)』


本作は、劇場祭に様々な役割で参加している8人が、それぞれのバックグラウンドを活かして演奏するコンサートである。演奏者の8人は、基本的に演奏家ではなく、舞台美術家、制作、建築を学ぶ大学生……など、多種多様な肩書きを持っている。いわゆる音楽経験がない人が半数以上を占めるが、全員が作曲を行い、自作を演奏するために、リハーサルであれこれ相談をしながら構成を行った。(編集されたコンサートの全編映像は、2020年9月に公開を予定している。)

具体的な作曲と演奏のプロセスには演奏者の「バックグラウンド」を用いることにした。バックグラウンドとは、例えば職業が大工であれば「釘打ちが上手い」、趣味がサイクリングであれば「自転車を漕ぐのに慣れている」など、それぞれの個人が持つ技術や経験のことである。

こういった個人が持つ技術、経験を、なんとかして音楽に変換していく。釘打ちだとしたら、打つ速さを変えたり、打つ場所を変えたり、既に打った釘を再び打ってみたり……と、様々な方法で、釘打ちのバリエーションを引き出し、演奏として成立するような構成を目指していく。このように、演奏家ではない人々が持つバックグラウンドが音になり、やがて音楽となる。

そして、それぞれの楽曲は「出演者と同じバックグラウンドを持つ人々」であれば、特殊な技術がなくとも、比較的容易に演奏可能となる。先に例を挙げた「釘打ち」をベースにした楽曲は、恐らくサックス奏者よりも、大工、あるいは舞台美術家のように、普段から釘打ちをしている人々の方がよりクオリティが高い演奏が行えるだろう。同じように「自転車」を使った楽曲も、競輪選手はもちろん、普段の通勤で日常的に自転車を使用している人の方が、電車通勤のピアニストより質の高い演奏ができるに違いない。

そもそも、「演奏」には特殊技術が必要なのだろうか。
私たちは小学校から西洋音楽をベースとした教育を受けるため、「楽譜、あるいは楽器=音楽」と結びつけてしまうのは、ごく一般的な感覚だと思う。しかし、西洋音楽は全ての音楽の中でのごく一部に過ぎず、楽譜のない音楽も、音程が滅茶苦茶な音楽も沢山ある。例えばアフリカの一部の地域で使われている「トーキングドラム」(太鼓の音を使って遠方とのコミュニケーションを取る方法)など、演奏行為がごく自然な営みとして日常生活に溶け込んでいる地域もある。

知識や技術ではなく、日常の経験、すなわち「バックグラウンド」から生まれた音楽を作り出すことはできないか。本作のプロセスは、ごく日常的な個人の営みと、演奏を結びつけるきっかけになると思っている。

また、本作で生み出された楽譜たちはWeb上に著作権フリーで公開されている。
https://note.com/api/v2/attachments/download/d5fa7ff1df727326d78aa6d22da22825

楽譜の形式も音符を使用していない「指示書形式」のため、日本語表記がネックではあるものの、そこさえクリアできれば誰でも演奏できる構造となる。使用料や許諾もかからないため、自由に発表もできる。単発のコンサートで終わることなく、この演奏に触れる機会を残す……すなわち、未来の演奏者を待ち続けている。ぜひ、楽譜を元に演奏して頂けたら、私としても嬉しい限りである。


日常の営みと芸術


『Play from someone(nice sound!)』は、このように日常と演奏を繫ぐ作品である。私がこうした芸術と日常の営みの関連を強く意識したきっかけも、ここに記しておきたい。

今年に入ってから、周知のようにライブハウスや劇場は営業を自粛せざるを得なくなった。自粛自体は仕方のない側面があるとはいえ、特に3月〜4月頃は、ライブハウスや劇場がメディアの標的にされているという気持ちは拭えなかった。

もちろん「芸術文化は生活に直結しない」と考える人々が多いこともわかる。今では舞台作家、作曲家として仕事をしている自分も、高校生までは現代演劇の存在を知らなかったし、クラシック音楽の良さに気付いたのは大学生以降である。

一方、「わからなさ」に対して、芸術文化の必要性をロジカルに訴える気持ちも当事者としてわかる。なくてはならない行いであると断言できる。しかし、言葉だけではわかりえあえないことも多く、罵り合いになってしまう様子をインターネット上で幾度も見てきた。言葉で伝える努力に加えて、どうやったら自分たちの仕事が世の中に対して必要であることを伝えられるのか……というのは何かと考えることが多い。特に2019年、あいちトリエンナーレに音楽家として参加したとき、連日のニュースで流れていた「作品の撤去を求める声」が持つ切実さは、いまだに脳裏に焼きついている。

そのような経緯もあり、私は昨年から芸術文化の魅力を、言葉+aで伝えることができないかと思った。「+a」の部分をどうやって作れるかが、大切な行いであると思った。

今のところ私にできそうな+aは、受け手が「自分のためだと思える作品」を生み出すことではないかと感じている。個人が、なんとかして作品と関係を結ぶことができないか。皆のためではないかもしれないが、特定の誰かに向けた作品……つまり、例えそれがたった一人だとしても、受けてが「自分のため」に作られたと感じられる作品である。『Play from someone(nice sound!)』の個人の「バックグラウンド」から音楽を生み出す創作プロセスは、そんな思いも関係している。


数年間の活動


最後に、これからの活動について触れておきたい。2020年からの数年間、劇場に満員の観客を集めて上演を行うことは、事実上困難であると思う。しかし、私個人としては動員という「数」の指標が減ったことで、より創作に熱中できる環境にもなると考えている。

『Play from someone(nice sound!)』のように、観客の対象が限られた作品を作ることは、コロナ以前は、今よりも難しかった。現実的に、無意識の内である程度の観客を動員することを前提に、公演のディレクションを進めていた。

しかし、動員で公演の成功を語ることが困難になった今、純粋にクオリティだけを追求できる時期と考えることもできると思う。もちろんこれは、かなり小規模な活動をしている私のようなアーティストだけかもしれないし、劇場のような場所を持つ人々はまた別の問題を抱えていることは間違いない。ただ、収入の問題を抜きにすれば、5年後、10年後の創作に向けて、試したいことを試し続けることができる時間になると思う。私はそのような気持ちを持って、ここから数年間を過ごしていきたい。

額田大志

いただいたサポートは会期中、劇場内に設置された賽銭箱に奉納されます。