第3話 高見沢事件
約30年前、私の女子大生生活は山の上にひっそりと佇む、古い学内女子寮の3人部屋で始まった。
ルームメイトは、四国から来たマイちゃんと、広島出身のリョウコである。
マイちゃんは4人兄妹の長女で、しっかり者の物静かな子だった。朝は一番最初に起き、私達が目を覚ます頃には身支度を完璧に終わらせて、朝食の時間が来るのを静かに待っていた。
こちらがかしこまってしまう程、真面目で几帳面で落ち着いているマイちゃんだったが、どういうわけか(と言うのも失礼な話だが)アルフィーの高見沢さんの大ファンで、ベッドの上に等身大と見まがう程大きなポスターを貼っていた。勉強机には、高見沢さんの名前が書かれた謎のしゃもじが恭しく飾られ、日々そのしゃもじを眺めては、うっとりとした溜息をつく。高見沢さんの話をする時だけ、声が1オクターブ高くなり、別人のような甘い笑顔を見せた。
そんな、マイちゃんが神と崇める高見沢さんを、虎視眈々と狙うヤツがいた。リョウコである。
リョウコは国立大の芸術科に落ちて、この女子大に回ってきた不本意組で、エネルギーに満ち溢れた個性の塊のような人物だった。朝食で爆発したドリフ頭のまま白目を剥いている彼女だ。
そのリョウコが、ある日、マイちゃんのベッドの上の特大高見沢さんに髭を描きたいと言い出した。高見沢さんを見ていると、リョウコの芸術魂が疼くらしい。小学生男子が、学校や駅に貼られているポスターの俳優さんの鼻の穴に、画鋲を指すのと同じ魂だろうか。子どもの感性を持ち続けているのが芸術家と、どこかで聞いたような気もする。
リョウコの願望を、私は当然止めた。マイちゃんの高見沢愛は只事ではない。そもそもリョウコは、一度高見沢しゃもじに触ろうとして、マイちゃんに本気で怒られている。ポスターに髭なんて描こうものなら多分刺されるだろう。描きたいと、願望を口に出しただけでも一服もられるかもしれない。よく分からないリョウコの芸術魂のせいで、殺人事件に巻き込まれるのはごめんだ。殺人がないにしても、不穏な空気の中で生活するのはやっぱりごめんだ。
しかしリョウコの高見沢髭願望はどうしても止まらないらしく、そのうち真剣な顔で言い出した。
もう我慢ができない。衝動的に高見沢さんに髭を描いてしまいそうで自分が怖い。
芸術家の執念は恐ろしい。
でも特大高見沢に黒々とした髭を描くのだけは阻止しなければならない。そこで私は考えた。
ポスターではなく、マイちゃんが気付かないような小さな高見沢さんに髭を描いて、その欲望を少し満足させてはどうだろう。
リョウコは一も二もなく賛成した。当のリョウコだって、マイちゃんを怒らせるのは嫌なのだ。
私達はどこかに小さな高見沢さんはないかと探し始めた。しかし高見沢さん関連の物を持っているのはマイちゃんしかいない。私達はマイちゃんの雑誌に目を付けた。高見沢さん特集の組まれた雑誌だった。
そして見つけたのだ。最後のページの目次のような所に、豆粒大の高見沢さんを。
ただの目次だし、大きさは小指の爪に満たない。流石のマイちゃんもここには注目しないだろう。
リョウコは喜び勇んで細いマジックを取った。そして豆粒高見沢の鼻の下に、小さな横線を一つ引っ張った。
リョウコの芸術的衝動は満たされ、私達はそれきり豆高見沢の事を忘れてしまった。
ところが一ヶ月程たったある日、リョウコと私が一緒に部屋に戻ると、私達の顔を見るなりマイちゃんがプイッと部屋を出て行ってしまった。私達はポカンとした。
マイちゃん、どうしたのかな。
何か、怒ってるみたいだったよね?
能天気に首を捻っていると、隣の部屋の住人が駆け込んできた。
あんた達、マイちゃんの高見沢さんに髭描いたんだって?
私達は絶句した。高見沢さんの髭が見つかった?まさかあんな小さな豆粒高見沢さんの髭が見つかってしまうなんて。
隣の部屋の住人は、困った顔で告げた。
マイちゃん、めちゃくちゃ怒ってるよ。人の大切な高見沢さんに髭を描くなんて、人間じゃないって。
人間じゃないと言われたリョウコと私は真っ青になった。私達はマイちゃんの高見沢愛をなめていた。マイちゃんにとって、どんなに小さかろうと、高見沢さんの顔にイタズラをするような者は人でないのだ。
すると、隣の部屋のもう一人の住人がやって来た。部屋に帰ったら、凄まじい怒りのオーラを発するマイちゃんがいて、怖すぎて部屋に戻れないから何とかしろと言う。
すぐに班のメンバー全員に緊急招集がかかった。
寮では、三部屋をまとめて一つの班となっているのだが、毎晩寝る前に班で集まる夜の会のようなものがあった。そこで班長が寮の連絡事項を伝え、班員全員が揃っている事を確認して、寮母さんに報告する。班のメンバーはとても濃密な関係なのだ。
マイちゃんを除いて七人いるメンバーのうち、六人が私達の部屋に集まった。残りの一人は、マイちゃん見張り人として、隣の部屋に派遣された。
緊急班会議の中で、まずリョウコが高見沢さんに髭を描くに至った経緯を話し、みんなは真剣な顔で、リョウコの気持ちが分かるとか分からないとか言い合った。が、とりあえず全員の一致した意見は、どこをどうとってもリョウコが悪い、というものだった。それを止めなかった私も同罪と認定された。
とにかく二人でマイちゃんに平謝りをするしかない。そして明日にでも同じ雑誌を買ってきてマイちゃんに進呈するのだ。
私達はメンバーに押し出されるようにして、隣の部屋へ向かった。恐る恐るドアを開けると、マイちゃんが顔を上げた。私達は、ごめん!と頭を下げた。
高見沢さんに髭を描くなんて、私達は本当に馬鹿でした。小学生みたいな真似をして恥ずかしい。でも決して高見沢さんを馬鹿にしてる訳でも、マイちゃんを馬鹿にしてる訳でもない、ただ高見沢さんがあまりにも髭の似合いそうな顔をしているから、芸術的な髭を付けてみたくなっただけなんだ。
そんなような事を、確かリョウコがつらつらと述べ続けた。
明日すぐに雑誌を買い直してくるから。
マイちゃんは微笑んだ。
いいよ、もう。そんなの買ってくれなくても。でももう二度と高見沢さんに髭は描かないでね。
どうやら、緊急招集がかけられ、班全体での会議が開かれている事で、マイちゃんの怒りは収まってきていたらしい。おおごとになるという事は、それだけ事の内容が重要事項であるという事だ。つまり、高見沢さんは重要人物として、みんなに扱われている事になる。それでマイちゃんの溜飲が下がったのだろう。翌日、新しい雑誌を買ってきた私達は、もう一度マイちゃんに平謝りしながらそれを渡し、そして一件落着となった。
それからしばらく、私達がマイちゃんと高見沢さんにビクビクしていたのは言うまでもない。
数十年後の今、娘の友達にYOSHIKIが大好きな子がいる。娘はその子に、私達の高見沢事件の話をしたらしい。すると
え〜、〇〇ちゃん(娘)のお母さん、酷い!そんなん人間じゃないわ〜!
教訓
ビジュアル系(になるのか?)に髭を描くヤツは人間ではない。らしい。
皆さん、人に髭を描く時には気を付けましょう。