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映画『きのう生まれたわけじゃない』を観てきました。

映画との出会い

何の気なしに降りた駅で、何の気なしに入った本屋さんの、
何の気なしにフォローしたTwitterで、紹介されていたのがこの映画でした。

観てみようと思ったのはなんとなくおもしろそうだと思ったからで、
山梨からの片道2時間に見合うものなのかは自分でもよくわからなかった。

強引に言語化するのであれば、『きのう生まれたわけじゃない』
というタイトルと、Twitterでの紹介に、強い思いを感じたから、
結局は直感という言葉が最もしっくりくるでしょうか。

だから上映される映画館が小さいことも、
インディー映画だということも、
監督がもうこの世にいないことも、
知らずに観ようと決めたのでした。

以下本編の内容を一部含みます。

映画を観て

映画を観ながら感じていたことは、
みんなの「きのう」を知りたいということでした。
七海が学校に行かないことも、孤独が集った「憩いのベンチ」も、みんながみんなと出会ったのも、マー君がどこかに行ったのも、理由なく描かれていて、それが「きのう生まれたわけじゃない」ということなのだと思えました。

それから、七海以外の人物の描き方も主人公のようで、
全員に人生があるという当然を当然伝えて、
そしてそれぞれがそれぞれの方法で
幸福をつかんでいく様子が、
コラージュのようで美しいと思えた。

映画を一緒に観に行ってくれた(半ば強引に)友人は、高校からの友人であるが、それ以前の人生も当然あって、私と会っていない99%以上の人生があるのに、私と一緒にいた1%未満の時間に胡坐をかいていないか、不安になってしまった。特に観る映画を勝手に決めたことに。

難しいというかけがえのない感情について

ここまでは映画を観て思ったことを少ない手札で手さぐりに不完全に
自分の言葉にしてきたが、正直に映画を観て思ったことは「難しい」
だった。単純な言葉でいうと抽象的で、理解が追いつく前にシーンが変わっていくことも1回ではなかった。

でもだからと言って、自分の知識や、あるいはセンスがないのが悪いとか、
ましてや映画が悪いなどとは全く思わない。

難しいということは、今から理解できるということで、
何かを理解し続けることが、私にとっての生きる理由なのです。

だから、相対性理論も、ドグラ・マグラも魅力的で仕方がない。

だから、この日観た一本の映画を大切に想っていたい。

福間健二の他の映画もいつか観よう、詩集を読んでみよう、

この映画を余すことなく楽しめる日が来るのが楽しみで仕方ないし、
この映画を楽しむために費やす日々が楽しいものだと信じて疑わない。

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