世界の常識とは

「『世界の常識』などという人は外国にはいない」論を聞くたびに、おやおやと思う。
それは、発言者がこれまで会って来た人たちが既に「世界の常識」の中にいて、言うまでもない自明のことだと考えているからではないのか。
自らが異質だと思えばこそ、「世界の常識」を意識せざるを得ないわけなので。

往々にして、そういう場で取り上げられる常識、そして意識されざる常識とは、西欧社会のコンセンサスであることが多いと思う。
人権の尊重、機会の均等、職業選択や情報発信の自由、等々。

しかし、イスラム国家や中国ではその依って立つ理念がまた違うはずだ。

その一方では、自分たちの狭い社会の「常識」が「世界の常識」であるべきだ、と唱えて様々な行動を起こす人たちがいることもまた現実。

こうした人たちへの対応には、無制限な多様性の許容は通用せず、利害を調整し共存するための法が必要。

法を維持するための強制力もまた、必要かもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?